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『静かな大地』池澤夏樹(朝日新聞社)

静かな大地

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 池澤夏樹は北海道生まれで、現在パリ(郊外)に住んでいる。私も北海道生まれで、現在パリに住んでいる。大した共通点ではないかもしれないが、私は彼の作品が好きだ。実は、池澤がデビューの時から気になっていたことが一つある。それは彼の父が福永武彦であることだ。

 福永武彦は、私にパリへの想いを募らせてくれた作家の一人だ。『死の島』を読みベックリンの同名の絵を見たいと思い、フェルメールに関するエッセイを読み、オランダへ行って本物を見たいと思った。その願いは1981年にかなったのだが、特にフェルメールとの出会いは衝撃的だった。

 パリと私を結び付けてくれた父親を持つ池澤夏樹であるから、何かと気にしていたのだが、『静かな大地』にはいろいろなことを考えさせられる。アイヌ民族に対して私たちは一体何をしてきたのか。1899年に制定された「北海道旧土人保護法」などという名の法律が廃止されたのは、何と1997年のことだ。今「私たち」という時に、自分を何であると考えているのか。侵略者の一族という認識があるのか。

  小、中学生の頃、学校の遠足や修学旅行で必ずといっていいほど訪れるのが、アイヌのコタンであった。熊の木彫りやイヨマンテ(勿論真似だけであるが)の様子を見たり、ムックリによる音楽を聞いたりした。ただ、いつも記憶に残っているのが、アイヌの人たちが決して笑わないことだ。もしかしたら、笑ってくれた人もいたのかもしれない。しかし、不機嫌な様子で鑿をふるっているイメージが強く残っている。今なら分かる。何故に彼らが笑えなかったか。彼らから笑いを奪ったものの正体が、不気味な形でこの作品には描かれている。

  主人公の三郎と志郎は、両親と共に淡路島から明治初期に北海道の静内に入植した。苦労しながら生活していくうちに、彼らはオシアンクルというアイヌの少年と仲良くなる。これが彼らの(少なくとも三郎の)一生を決めてしまう。後に三郎は札幌で学び、その知識を元にアイヌの力を借りて静内近郊で牧場を始める。

  アイヌは狩猟の民である。馬に関しても非常に詳しく、牧場は繁盛するのだが、アイヌを悪く思う者達や、利権を求める者達のせいで悲劇へと追い込まれていく。三郎は優秀な人間で、アイヌと力を合わせて自分達の牧場を守ろうとするが、力尽きてしまう。アイヌに育てられた和人の娘である彼の妻も、その直前に亡くなる。

  後に残るのはタイトル通り「静かな」心境である。北海道の空気のように、静かで冷たい空間。悲しく、寂しいのだが、なぜか「静か」なのだ。諦念ではない。怒りでもない。そのような感情を超えた、太古の自然の中に一人置き去りにされたような、不思議な静けさを感じる作品だ。

  語り手は志郎の娘の由良だ。彼女が伯父の一生をまとめる形となっている。由良の語りも「静か」なのである。この静かさは、アイヌの精神に通じるような気がする。自然と共に暮らし、平和を愛する民族。全ての揉め事は合議により解決する。私たちが二十一世紀において、取り戻さなくてはいけない世界の全てが、ここに存在しているのではないだろうか。

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