『山のパンセ』串田孫一(岩波文庫)
「人にとって山とは何か」
先日休暇で地中海方面へ出かけた時に、なぜか山の本を持っていった。海を見ながら山について思いをめぐらすのも悪くないと思ったのだ。串田孫一を教えてくれたのは、自身も詩を書いていた文学少女だったが、もう30年以上前の事だ。その時は彼の随筆にそれ程強い印象が残ったわけではないが、いつ思い出しても何だか懐かしくなる文章なのである。人に媚びる事の無い、まさに山そのもののような雰囲気が心地良い。
『山のパンセ』は筆者の自選随筆集だが、題名の通り山について思った事、山で思った事などが独特の語り口で綴られている。串田は山登りに適した良い季節を選んで山登りをするわけではない。結構冬に誰もいない山に登ったりしている。特別な目的のために登るのでもないようだ。「普通の生活を送りながら、何かの折に襲って来るような心細さが、山へやって来ても同じように襲いかかる」と言い、「私は山へ来て、普段と少しも変わらない自分を見るようになって来た。」と語る。
何かを求めて山に行っても、山は何も答えてくれないのだろう。もともとそんな事を期待することが間違っているのだ。山と対峙する事は、自己と対峙する事なのかもしれない。山へ行き、歩き、水を飲み、少々の食料をとり、一服し、美しい風景があれば絵や文章にする。ただその繰り返しだ。音楽すらも必要ない。「もともと山と音楽の世界とは非常にかけ離れているものと思っている。」自然は人の技巧を超越するのか。
濃霧のせいで期待していた風景が見られない時、「霧の彼方にはすばらしい山があるはずだと思って自分を不幸にするよりも、今は感覚の一部分を自然にあずけてそれを特別に不自由なことと思わず、許された範囲のことを、許された力だけで考えるのを悦ぶことにしましょう。」と考える。詩人で哲学者である筆者ならではの、心に沁みる想いである
夜に山中を歩いていても恐怖はない。熊と出合ったらと考えても「こんな時に私が想像する熊は、ちっとも凶暴ではなくて、恐縮している容子だった。話をすれば通じるような熊しか考えられなかった。」と、ユーモアの余裕さえある。だが、一人歩きをして行き着くところは、「私はこの寂しさが欲しかったことに気がついた。」となる。
この寂しさは決してつらいものではないだろう。志賀直哉が『城の崎にて』で描いた心境のようなものだろうか。都会での日常生活では中々気づかない、世界の「核心」のようなものとの触れ合いの瞬間かもしれない。哲学の永遠の問いである「自分とは何か?」に一歩近づけるようなものかもしれない。
紹介される草花や鳥の声に想いを馳せるだけでも、楽しい作品だ。山にいなくてもその明るい孤独が伝わってくる。松尾芭蕉の『奥の細道』を清書した素竜の「一たびは座してまのあたり奇景をあまんず」といったところだろうか。最後の方で「表現する最上のむつかしさは、何を隠すか、何を書かずにおくかということにあると思っている。」などと書かれると、再読し行間を読み取りたいと考えずにいられない。