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『この世は二人組ではできあがらない』山崎ナオコーラ(新潮社)

この世は二人組ではできあがらない

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「センテンスの魔術師」

 ゆるゆるの恋愛小説だと思ったら大まちがいである。


 この作家は言葉にとてもこだわる。プロだなあ、と思う。下手すると小説であることさえ、二の次なんじゃないかというくらいまっしぐらに言葉に立ち向かっている感じがある。緻密で、シャープ。ずらしやひねりも効いている。だから、語りがいちいちきゅっと差し込んできて、まさにイタ気持ちいい。

 もちろん警句だけで作られたような〝つぶやき小説〟ではない。人物造形もしっかりしているし、展開にも説得力がある。主人公の「紙川さん」はへらへらした女たらしかと思っていたら、意外とそれだけでもないところもあって、でも、やっぱりそうだったりもして、あっちこっちに揺れているのだが、そんな生半可な色男が、ちょっと突っ張った語り手の「シオちゃん」を魅了してしまう。その不思議さが実にうまく表現されている。不思議どころか、ああそうだよな、と思う。こういう女はこういう男に弱いんだろうな、と納得する。

 とくに絶妙なのは、紙川さんがはじめてシオちゃんに告白するあたりのシーンなのだが(恋愛小説でここがダメだったら話になりませんね)、そこはむしろ読んでのお楽しみにとっておくとして、紙川さんがふだんどんな言葉をしゃべる人かというと…

「でもさ、仕事が終わったあとに、文庫本一冊と、缶ビール一本を買って帰るのが、一日の終わりの楽しみなんだ。部屋で読書したり、CD聴いたりしていると、生きているって感じがするよ。文化ってすごいなあって」

さて。これで、相方が「うん、文化ってほんとすごいんだね」などと返したら話にならないわけだが、小説家志望のシオちゃんの方は、対照的に、こんなことを考える人なのである。

相手の好意を感じるのは決して、好きだ、言われたときではない。
それから、好きだ、という科白をひとりの異性にしか使ってはいけないという社会通念を、私はばかにしていた。どうして全員が二人組にならなくてはならないのか、なぜ三人組や五人組がいないのか、不思議だった。

紙川さんとシオちゃんの言葉のレベルはぜんぜん違う。ふたりはほとんど別世界、別惑星に住んでいるのだ。だから、紙川さんがああいうことを言うとシオちゃんは、「ふうん」と言いながらもやや「???」な心境になっている。少しだけ意地悪な眼差しを送っていたりする。でも、この「意地悪」はおそらく「この人かわいい」という気持ちと限りなく近い。だから、この微妙な距離が、むしろ紙川さんとシオちゃんの恋愛の形となっていく。

紙川さんはときどき不安そうな顔をするなあ、と思ったら、どうやら私のことが本当に好きらしい、それで私のことを考えているようだ。手や腕が偶然に触れ合ってしまうようなときに、そのことが伝わってくる。自分はこの人に何かを与えてあげられるかもしれない。傲慢かもしれないが、そんな気がしてならなかった。

科白にせよ、心理描写にせよ、ふたりの気持ちが語られる言葉はことさら〝無防備〟だ。一歩まちがえたら気の抜けた紋切り型になるところ。それをぎりぎりのところでずらしている。「文化ってすごいなあって」とか、「私はばかにしていた」といった一言は、まさにボール一個分の出し入れなのだが、でも、これでストライクをとる。

 物語の芯を成すのは、シオちゃんの「自分はこの人に何かを与えてあげられるかもしれない」という言葉である。シオちゃんは〝与える女〟として成長していく。古いタイプの〝与える女〟ではない。決して女であることをやめるわけではないのだが、男っぽいところがある。それも演歌っぽく抒情的に男っぽいのではなく、もっと現実的にというか、制度的に男っぽい。市役所に行って、親から籍を抜いて自分だけの籍をつくったり、もうほとんど関係が終わりかけている紙川に金を融資したり。

私は金を送り続けていた。そのことが彼の「距離を置きたい」と言いたくなる気持ちに繋がっていたのだろう。要はプライドの問題である。だが私は、「彼のプライドを傷つけている」ということに却って喜びを覚えてしまった。嗜虐というのか、変な快感がある。もっと金を送りつけてやりたかった。

なかなかいやな女だ。しかし、紙川さんの方は金をもらう前に「オレは返すけど、普通、同年代の男に金を貸すなんて、あげるようなもんなんだよ」なんて忠告したりするわけで、どっちが一枚上手かわかったものではない。おもしろい恋愛である。

 出だしが「社会とは一体なんであろうか」などという、社会学の教科書みたいな一文ではじまるこの作品には、小説への挑戦状めいた趣がある。人物の造形にしてもそうである。「この小説の主人公である紙川さんは二月生まれであり…」とはじまり、「どうしてもてるのか不思議だったが、そのふざけ具合や極端さ、自信のある感じが、若い子には受けるのかもしれなかった」などと言われると、こちらはほとんどこの紙川さんに興味を失いかけるのだが、ここからじわじわとしぶとく人物を作っていってしまうのだからすごい。

 帯にある「社会派小説」というキャッチコピーはおそらく作者がつけたものではないだろうが、この作品で山崎ナオコーラが、自身の言葉のセンスをたよりにかなりきわどいことをしているのはたしかだ。ふつうは小説では避けられるような「社会」の言葉をあえてとりこみ、物語の大事な部分で生かしている。何より、「社会」という言葉そのものがやけにたくさん出てくるのだ。

そして私は辞書をひくのをやめた。
 言葉は、社会の中をただ流れている。言葉には美とユーモアがあるだけで、意味というものは存在しない。社会の中で生き、耳をすましていれば、語彙は増える。言葉はただの道具で、面白いだけだ。
 また三月三十一日に小説を書き上げ、出版社に送った。

いろんな言葉のレベルを錯綜させようとしているらしい。まるで世界そのもののように。「文学」で「社会」を描くなんていう大業なものではない、ごちゃごちゃっと「文学」と「社会」とが混じり合うのだ。伝記的事実に符合しそうな細部も多く、「ほんとにそうなんだ」という感想を誘うが、そんな中にあって、「センテンスの魔術師」とでも呼ぶべきこの著者がもっとも才能を発揮する鋭利な言葉は、あくまで抑制的に、禁欲的に使われている。

世界の深淵を眺めていたい、遠くの風に耳を澄ませたい、薄氷を踏むように喋りたい。

たくさん喋ったあとのケータイは熱い。赤ちゃんのような熱を帯びる。

ほとんどそのまま現代風短歌としても通用するくらいの突っ張った言葉だ。でも、山崎のこの小説はあくまで〝歌〟の一歩手前で踏みとどまっている。その方がいいな、と筆者も思った。


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