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『高橋悠治 対談選』小沼純一編(ちくま学芸文庫)

高橋悠治 対談選

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「希望は自分で作り出すもの」

 『高橋悠治対談選』は面白く刺激的だ。作曲家、作家、研究者等との対談なのだが、実に見事に高橋の姿が立ち上がってくる。約450ページと、文庫本としては厚い方だが、一気に読ませてくれる。何がそんなに面白いのだろう。高橋の反逆的姿勢だろうか。いやそんな言葉では彼の思考を定義できない。対話者の発する意見に、縦横無尽に遠慮会釈なく吐き出される高橋の言葉は生きている。「率直な、天真爛漫、自然な」等と訳されるフランス語の形容詞「spontané」が相応しい。

 山口昌男が聴衆に飽き飽きしたりしないかと尋ねると「聴衆に飽き飽きしているんじゃなくて、聴衆をつくりだしているあるものに飽き飽きしている、とは言えるけどね。」と答える。権代敦彦に、久々にオーケストラと競演するんですねと言われて、オーケストラと一緒にやらない理由を「そもそもオーケストラって、二回練習して本番、それで終わりでしょう。あとはその時流行っているマーラーとか、今年はモーツァルトか、それをやっていれば成り立ってるわけだから。その時限りにすぎないから、何やっても無駄なんだよね。」と言う。

 武満徹と喧嘩したために暫く弾かなかった『アステリズム』を弾くことになり、「武満のスコアを一種の台本のように使って高橋悠治の音楽をやるのか」と問われると、高橋悠治の音楽をやるわけではないと言い、武満のスコアを一種の台本のように使って「武満の音楽から何が発見できるか」をやると言う。好奇心のかたまりのような所がある。しかもそれが鋭く、深い。

 武満徹との1985年の対談は示唆に富んでいる。芸術家の役割について武満は「本当に生活している人間全部が芸術家的な創造者になり得る時代までの、かりそめのある一つの役割」だと言う。高橋はパトロンの問題を捉え「自分の好きなことをやっていれば貧乏でもいい、というような十九世紀的な芸術家像は、やっぱりどこかで自分は保護されているのだ、ということを忘れている」と指摘する。

 武満はさらに、今の日本社会は金の使い方を誤ったがために、表面的には経済が豊かに見えるが「目に見えない余力を使い切っちゃっている」と発言する。これがバブル直前の時期だ。高橋は2008年に渡辺裕との対談で音楽関係を含めて、会社というものは「いかにして大きくなりすぎないような状況を保つか」が肝要だと言う。グローバリゼーションを良しとする消費社会への警鐘だろう。

 鎌田慧との対談で鎌田が書いた『ガラスの檻の中で』という原発を扱った作品が話題になる。機械を人間は管理できるのか。公共の利益という言葉を振りかざして、事業を進めるときにそれは時として暴力にも似た攻撃的な何かに変わってしまう。高橋の一言は強烈だ。「管理しなきゃいけないとされるものは、本来は管理できないものだと思う」。

 至る所に、こちらの感情を代弁してくれる発言があり、また我々の視点とは全く違うものを提供してくれる。それゆえに、楽しく、面白いのだ。対談者たちの慧眼も見事だし、どんな分野でも自分の立場をしっかりと保ち発言する高橋も見事である。知識があるゆえの発言ではなく(もちろんそれもあるのだが)、知識と言う言葉で括られる前の原存在的な何かに向っていく姿勢が大切だと言う事を教えてくれる。

「何も期待することがないときに、希望が生まれる。そして希望は自分で作り出すもの。」今こそこの高橋の発言が重みを持つ。


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