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『夏の流れ 丸山健二初期短編集』丸山健二(講談社文芸文庫)

夏の流れ 丸山健二初期短編集

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「日常と非日常の狭間」

 ホッとしてしまう。何故だろう。世代の近い作家だからだろうか。いや、そんなことではないはずだ。自分では気づかないうちに、その頃の文学の流れにゆったりと浸かって心地よかった時を反芻しているのだろうか。しかし、若い時は本を読むことが常に「心地よかった」訳ではない。新しい作家が世に出る度に、戦うような気持ちで読んでいたのだから。加えて、丸山健二は文壇の主流を歩いてきた作家ではない。内容が予定調和的なものでもない。

 丸山の初期作品集『夏の流れ』の解説において、茂木健一郎は丸山の作品はジェームズ・ジョイスの『ダブリン市民』に通じるものがあると言う。特に人はいかに生きるかという倫理的感覚において。一理あるとは思うが、丸山の作品には『ダブリン市民』に溢れる倦怠感や諦念はあまり見られない。確かに主人公たちはある種の「閉鎖状況」に置かれているが、そこから永遠に出ることのできない諦念よりも、いつか何かが起こりその閉鎖状況は崩壊するのではないかという「予感」の方が重要だ。

 表題作となっている芥川賞を受賞した『夏の流れ』の主人公の佐々木は、死刑囚を担当する看守だ。良く釣りに一緒に行く親しい同僚の堀部、新人の中川、新たに入った凶暴な死刑囚を中心に話は進む。それと並行して、2人の子供と3人目を妊娠している佐々木の妻がいる家庭の様子が描かれる。つまり、非日常的世界と日常的世界が同時に存在している。だが、佐々木にとっては死刑囚も死刑執行も日常的世界に過ぎない。

 中川にとっては、非日常的世界が日常的世界に変わらない。死刑囚に暴行を受け、その翌日その死刑囚の執行を担当させられるのだが、それを受け入れられなく、佐々木に仕事を辞めると言う。堀部が執行担当の役割を変わってやるが、やはり中川は辞めてしまう。佐々木達も自分達の「日常」が日常である事を納得するために、誰かがやらなくてはいけないとか、死刑囚は人を殺したのだとかいうことを考える。他者による死が「非日常」であるとすると、佐々木達は自己の「日常」を獲得するために、他者にとっての「非日常」を作り出すという矛盾の中で生活している。

 酔って佐々木の家へ来て仕事を辞めると大声で叫ぶ中川に、コップに水をくんで飲ませ、何とかなだめすかして送り出した後の表現は腑に落ちる。「妻は玄関の鍵を掛けた。私は部屋に戻り、中川の飲んだコップを台所に持って行き、蛇口の下に置いて強く水を流した。」蛇口を強くひねる佐々木の動作に、やりきれない焦燥感、何処に向けて良いか分からない怒りが見事に表されている。

 雨の中嫌がる囚人の死刑執行を終えた瞬間、佐々木は囚人の足下に突然空いた穴を覗き込むが「暗くて何も見えない」この暗闇に潜むのは死に神か、それとも生と死の境目に住む魔か。以前新聞に何度も死刑を執行したことのある刑務官のインタビューが載っていた。彼はその「仕事」による特別手当を家に持って帰ることはなかった。その日はその金をすべて飲み尽くすまで酒場をはしごするのが習慣だったそうだ。

 佐々木は処刑の翌日の特別休暇に、家族を連れて海に行く。「おなかの赤ちゃんが動いたの」と言う妻に向かって彼は「子供たちが大きくなって、俺の職業知ったらどう思うかな?」と呟く。カミュの『ペスト』でタルーという、作者の分身的存在が描かれる。父親が死刑を命じる立場であることを知り、タルーはそういった世界から一番遠いところを探して旅をしている。彼が見つけた「聖人」は、一日中食事のための豆の数を数えている老人だった。つまり死刑を執行する社会と最も関わりの薄い存在である。裏を返せば、私達は全てが死刑執行人である。『異邦人』のムルソーの結論もそうだった。

 日常は繰り返すであろうし、繰り返しこそが日常でもあろう。だが、その中で「日常」や「社会」の本質を探る試みは、答えが出ないか、出てもどうにもならない現実を自覚するかだ。それでも、そこからどのように進んでいくかが、私達一人一人に問われている根源的問いであるに違いない。丸山健二の作品は、その問いを私達に鋭く突きつけている。


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