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『文字の考古学』Ⅰ&Ⅱ 菊池徹夫編 (同成社)

文字の考古学

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 恐龍に関する本はだいたい恐龍学者が書いている。星に関する本は天文学者だ。しかし、文字に関する本は考古学者か言語学者、あるいはジャーナリストが書いている。なぜ文字学者が書かないのかというと、個々の文字の専門家はいても、文字学者と呼べる人はいないらしいのだ。

 なぜ文字学者がいないのだろうか? 欧米にはプラトンの昔から、音声言語こそが真性の言語で、文字言語はその不完全な写しにすぎないという牢固たる信念がある。滅びた文明を研究するために、滅びた文字を解読することは必要悪として認められるが、現在使われている文字を研究するのは学問の本道ではないということらしい。

 本書は日本の考古学者たちが書いた文字に関する論集だが、元になったのは社会人向けの公開講座らしく、平明に書かれている。

 考古学者であるから、基本的には古代の滅びた文字をあつかっている。Ⅰは楔形文字ヒエログリフ線文字Bなど。Ⅱは中国、日本、北東アジア、中南米の古代の文字事情をとりあげている。以下、目についた箇所を拾ってみる。

 まず、楔形文字である。解読の歴史を簡単に紹介した後、トークン(数え石)が楔形文字の起源だという現在もっとも有力視されている説を批判的に紹介している。記号の刻まれたトークンと文字の出現が同時だという指摘が正しいなら、トークン起源説は怪しくなる。だが、トークン起源説に代わる新たな説が披瀝されているわけではないが、シュメール語の物語に出てくる、王の伝言を使者が憶えられないので、文字を作ったという起源説が紹介されている。

 著者はシュメール人は文字を単なる実用の道具としか使わなかったと考えているらしい。そして、『ギルガメシュ叙事詩』などシュメール語の文学作品は、後代のアッカド人がシュメール人に仮託して書いてものではないかと述べている。中世ヨーロッパ人がラテン語で詩や物語を書いたようなものか。

 ヒエログリフも解読の歴史からはじめ、複雑怪奇な表記システムの解説にはいっていく。ヒエログリフには母音字がないので、便宜的にeという母音を補って読むことになっているそうである。「アメンヘテプ」という王様がいるが、eを補っているから「アメンヘテプ」になるのであって、本当は「アモンホトパ」かもしれないのである。

 次の指摘は特に面白かった。

 われわれの目にするテキストでも古代の書記が文法的に間違いをしているのを見つける。研究者たちはこれを書記の間違いとしてすましてしまうことが多いが、しかし、ほんとうは間違いではなかったかもしれない。ようするに、われわれは後から規則をつくって、それに古代の文字を当てはめているのである。彼らは文字を正確に使って書いていたのに、この文字ができてから5000年も後に生まれた人間が勝手につくった文法で判断する。そこに問題があるのかもしれない。

 「地中海域の古代文字」の章では線文字A、線文字Bの解読物語を紹介した後、古代レバノンの単子音アルファベットの影響でギリシャ文字が誕生した経緯を説明している。

 レバノンを中心とした一帯ではアッカド語が外交言語となっており、ピジンアッカドというべき簡略化された楔形文字が使われていたが、言語と文字の間にかなりの齟齬があった。紀元前1000年頃、一気に単子音アルファベット化したのは、そのためではないかと指摘している。

 「古代ヨーロッパの文字」の章ではキリル文字やゴート文字など、キリスト教の布教のために、ギリシャ文字から作られた文字を紹介した後、キリスト教と無関係に生まれたと著者が考えるルーン文字とオガム文字を大きくあつかっている。著者はルーン文字とオガム文字は表意文字起源だというのだが、こういう立場はあまり一般的ではないと思う。

 Ⅰの最後はインダス文字だが、未解読の文字だけに発掘の経緯から話をはじめ、文字の話はなかなか出てこない。文字についての情報は、ドラヴィダ語との関係が有力視されていることぐらいである。

 Ⅱはまず古代中国の文字である。土器などに見られる符号や文様について詳しく触れている点は目新しいが、甲骨文以降は金文、大篆、小篆、隷書と、字形の変遷をたどるだけで、特に新しい情報はない。

 「古代日本の文字世界」は完全に考古学の話で、文字にしか興味のない人間には退屈だった。

 「北東アジア――文字から遠い世界」も考古学の話である。シベリア各地にラスコーのような狩猟を描いた岩面画がたくさん残っているが、ラスコーと異なるのはシャーマンが頻繁に描かれていることだそうである。

 「マヤ文明の文字」はマヤ文字のコンパクトな解説になっている。マヤ文字碑文には経済関係の記述は皆無と考えられてきたが、最近、貢納や租税を意味すると推定される文字が見つかったそうである。欲をいえば、マヤ文字に先行するメソアメリカの文字についてもふれてほしかった。

 「南米の無文字社会」はインカの結縄キープの話が主で、最後に岩面刻画についてふれている。

 Ⅱははっきりいっておもしろくないが、最後の「人類史と文字」という章は文字の本質論を語っていて刺激的である。

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