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『漢字樹』 饒宗頤 (アルヒーフ)

漢字樹

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 先日、TBSの「ふしぎ発見」で、最古の文字の可能性がある岩絵を紹介していた。

 問題の岩絵は中国の寧夏回族自治区銀川近郊の砂漠で発見された(中国情報局)。1万8000年から1万年前のものと推定され、太陽や月、神、狩りや踊りなどの様子が描かれていた。研究者によれば「一定の秩序に従って配列されており、文字としての機能を有している」そうで、単なる絵ではなく、最古の文字の可能性があるらしい(TVで見る限りでは、そうは見えなかったが)。

 現在、最古の文字とされているのは5000年前に粘土板に刻まれたシュメール文字である。銀川の岩絵に本当に文字が含まれていたとしたら、文字の歴史は一気に倍以上さかのぼることになる。

 銀川の岩絵が文字かどうかはともかくとして、近年、中国では甲骨文以前の文字の可能性のある遺物が各地で出土しているという。

 甲骨文字はシュメール文字よりも2000年、アルファベットのルーツとされる原シナイ文字と較べても500年遅い上に、最初から一貫した構成原理をそなえていた。いきなりこんな高度な文字が生まれるとは考えにくい。フィッシャー貝塚茂樹のように西アジアの文字の影響を想定したり、中国内部に原形となったより原始的な文字があったと考える方が自然だろう。

 著者は中国内部に甲骨文の先行文字があったとする立場をとっている。著者が先行文字と考えるのは彩陶(仰韶)文化期の土器に描かれた模様である。土器の年代は紀元前4500年前後とされている。

 シュメールの楔形文字より古いが、シュマント=ベッセラ楔形文字の前身としている粘土玉トークよりは新しい。

 彩陶土器の模様には「+」や「卍」が見られるが、これはメソポタミアの粘土玉に刻まれた模様と相似しているのだ。本書から引く。

最初の絵画においては、「文」は「紋」に等しく、じっさいに物象に基づいていた。最近、山西の襄汾から堯の古城址が発見されたが、その土器片に「文」の記号がみられる。次に特定の記号に発展すると、それがすなわち初文であり、そこから更に増殖して文字および文書になる。記号から派生してアルファベットができる。アルファベットは土器記号から選択されたり組み合わされたりしてできたものであろう。記号の発展には二つの道がある。(一)は記号の言語化で、これによってアルファベットが生まれる。(二)は記号の文字形象化で、言語とは結びつかない。漢字は言語と結びつかず、第二の道を歩んだ。

 以上のプロセスを著者は次のように図示している。

          漢字(言語を離れ形文ピクトグラムを主とする)

         /

 絵画文様→記号<

      ↓  \

      初文  アルファベット(言語化)

 現在の文字学の考え方からすると、著者の立場はかなり異色である。メソポタミアの研究からは土器の模様がそのまま記号になり、文字になるような経路は考えにくいし、「+」や「卍」のような模様は他の文化圏にも見られるから、偶然の一致の可能性を排除できないだろう。

 著者のいう「言語化」とは「表音化」だろうと思うが、漢字が「言語と結びつかない」(表音性をもたない)とするのは表音文字表意文字の二分法にとらわれた誤解のように思う。今日の文字学では表意文字という用語は表音性を排しているという誤解をまねきかねないので、表語文字という用語を用いるのが一般的である。

 著者は漢字が完全な表音化に進まなかった理由を次のように書いている。

 漢字は単音節で、その形成過程でもだいたい一字一音を保持したため、文字の構造は形声字が主となり、最高のパーセンテージを占めた。その構造は一個の形符と声符とから成っている。形符は視覚が主であるのに対し、声符は読音を採用して、言語との連繋を維持している。また前者は漢字の図形としての美感を保存している。形符と声符の両者はたがいに助け合い、文学における形文ピクトグラム声文フォノグラムの結合という文章の形を作りあげ、漢字が必ずしも言語を追いかける必要はなく、言語のきずなを脱するための基礎となった。政治生活の面では、文字は政令や礼制に用いられて、印章のような道具となり、その表現は識別可能で簡単明瞭であればよく、必ずしも言語との結合は必要ではない。したがって、中国人は文字を用いて言語をコントロールするわけで、シュメールのような民族では、ひとたび文字の言語化が行われるや、その結果、文字が言語に飲み込まれてしまったのとは違うのだ、と私は考える。

 「言語のきずなを脱する」とか「言語との結合は必要ではない」という表現はいかがかと思うが、漢字の完全な表音化をさまたげた要因として形声字に注目した点は河野六郎の『文字論』の指摘と一致する。

 ただし、河野は形声字だけではなく、語形変化がまったくない中国語の孤立語的性格をもう一つの要因としてあげている。母国語を相対化するのは難しいということか。

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