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『漢字百珍』 杉本つとむ (八坂書房)

漢字百珍

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 江戸時代に豆腐料理のレシピばかりを集めた『豆腐百珍』という料理本が流行ったそうだが、本書は38の漢字の異体字を選んで蘊蓄をかたむけた本である。杉本つとむ氏は国語学者で語源や異体字の研究で著名な人だが、名著『江戸の博物学者』の著者だけに、学者というよりは江戸の随筆家といったおもむきで、堅苦しい話は一切出てこない。落語のような語り口なので寝ころんでも読めるが、中味はディープで究極の無駄知識といえる。

 水戸光圀の「圀」や和同開珎の「珎」、朝日新聞の題字に使われている「」、風月堂のロゴに使われている「凮」のようなポピュラーな異体字も出てくるが、多くははじめて目にする得体の知れない字だ。

 恐ろしいことに、16万字の漢字をコンピュータで使えるようにしてくれた「今昔文字鏡」にない文字がぞろぞろ出てくる。漢字の世界は底が知れない。

 現在ではなじみがなくても、過去には確かに使われていたわけで、たとえば西鶴は『世間胸算用』を『世間胷筭用』と、芭蕉は「枯枝に鳥とまりたりや秋の暮」の秋を「秌」と書いた。芭蕉は「鶴」より「靏」、「樹」より「」を好んだそうである。

 陰と陽の簡体字は「阴」と「阳」だが、明代に作られた『字彙』という字書には「阥」と「阦」しかなく、「阴」と「阳」が登場するのは清代に作られた『字彙補』からだという。「陰」→「阥」→「阴」とだんだん簡単になっているが、著者によれば異体字の生成には 繁→簡 へという法則がある。

 著者は国語学が専門だけに、国字について多くの紙幅をさいている。「峠」や「泪」が国字であることは有名だが、「膵臓」の「膵」や「膣」、「腺」のような医学に用いられる字も国字だった。

 作ったのは江戸時代の蘭学者だった。「膣」についていうと、『解体新書』では「莢」と訳されていたが、独立の臓器なので宇田川玄真が「膣」という字を作った。膵臓漢方医学では存在が知られていなかった臓器で、やはり宇田川玄真が造字したという。

 明治に日本人が考えだした訳語が中国や韓国でも使われているのはよく知られているが、造字した国字まで漢字文化圏の共有財産になっていたとは知らなかった。

WindowsXPユニコード・フォントにない字は「今昔文字鏡」フォント・サーバーの提供する字形を使わせていただいた)

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