書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『親指はなぜ太いのか』 島泰三 (中公新書)

親指はなぜ太いのか

→紀伊國屋書店で購入

 マダガスカル島アイアイという不思議なサルがいる。どこが不思議かというと、中指だけが異様に細く、針金のようなのだ。

 アイアイの中指はなぜ一本だけ細いのか? 謎が解けたのは1984年のことだ。本書の著者、島泰三氏が、それまで昆虫食だと考えられていたアイアイがラミーという木の実を食べているところをはじめて観察したのだ。

 ラミーの実は胡桃のように硬く厚い殻に包まれているが、アイアイは切歯で殻に穴を開け、そこに針金のような中指を突っこんで、中味を掻きだして食べていた。アイアイの細い中指と鋭い切歯は、他の動物がもてあましていたラミーの実を主食とするために進化したものだったのである。

 島泰三氏はマダガスカル島をフィールドにアイアイをはじめとする多様な原猿類を研究しているが、手と口の形状と主食の間に密接な関係があることに気づく。

 たとえば、ネズミキツネザルは切歯から臼歯まですべての歯が尖り、手に吸盤をもっているが、これは甲虫を捕まえて食べるのに適していた。一方、体の大きさはネズミキツネザルと同じだが、樹液を主食とするピグミーマーモセットは鋭い鉤爪と、同じ高さにならんだ切歯と犬歯をもっている。鉤爪は樹皮に打ちこんで体を安定させるため、同じ高さにならんだ切歯と犬歯は樹皮を削りとるために適していたのである。

 島氏はマダガスカル島でえた知見をもとに、主食がサルの口と手の形状を決定するという「口と手連合仮説」を提唱している。

 マダガスカル島以外のサルはどうか。ゴリラは日本のヤエムグラのような棘のあるツル植物を主食としているが、指はツル植物を引きよせるように動き、掌はグローブのように分厚く、犬歯は皮を剥くのに適した形状になっている。一方、ニホンザルの主食は木の芽や果実、種子であり、季節季節で熟したものを器用につみとって食べている。ニホンザルの手は人間の手に似て摘みとる繊細な動作が可能であり、顔で目立つ大きなほお袋は種子などを一時的にためておくのに役立っている。どちらも「口と手連合仮説」がよく当てはまっている(本書ではもっと多くの例で検証されている)。

 「口と手連合仮説」はチャールズ・エルトンの「ニッチ概念」や今西錦司の「棲みわけ原理」と似ているが、「ニッチ概念」や「棲みわけ原理」がマクロな視点から見ているのに対し、「口と手連合仮説」は動物の形状というミクロなレベルから出発している。島氏は「ニッチ概念」を「主食に対する諸関係」、「棲みわけ原理」を「食べわけ原理」と捉えなおす。新種が確立するということは新しい独自の主食を開発することであり、新しい職業に就職することだというわけだ。

 これだけでもおもしろいが、以上は前置きにすぎず、本書の眼目は初期人類の誕生を、主食という視点からさぐることにある。

 初期人類もサルである以上、「口と手連合仮説」が正しければ、それまで利用されていなかった主食を新たに開発したはずである。初期人類の主食とは何だったのか?

 主流の説では、初期人類は森を失い、サバンナに進出せざるをえなかったとされている。初期人類はまだ非力で、歩行が遅く、狩りをするどころか、肉食獣の餌食になっていた。

 頑丈型アウストラロピテクスと呼ばれる初期人類は、それまで顧みられなかった草の根を主食としていたらしいが、同時代に生息していた華奢型アウストラロピテクスと呼ばれる別系統の初期人類は肉食をしていたらしい。われわれ現生人類は華奢型アウストラロピテクスの末裔であることがわかっている。

 肉食と行っても、当時の人類は狩猟はまだ下手だったから、肉食獣が食べ残した死骸をあさっていただろうと考えられている。いわゆるスカベンジャー(残肉処理者)仮説であるが、骨についている肉はハイエナなどと競合するので、他の動物が利用できない骨を石器で割って、中の骨髄を食べていたという説が有力である。

 島氏は「口と手連合仮説」をもとに、骨髄食仮説を一歩進め、骨を食べていたのではないかと推論している。

 骨を食べるなどというと奇矯な説のように聞こえるが、人類の歯は貝を噛みくだくラッコ並に厚いエナメル質に覆われている上に、牙状の犬歯が退化し、サル類では類例のない平らな噛み合わせ面をもっている。人類の口は骨のかけらをゆっくり転がすのに適した形状だというのだ。

 しかし、骨などに栄養があるのだろうか?

 骨髄は髄腔のなかだけではなく、海綿質の骨柱のあいだにも満たされていて、血液を造っている。血液を造る作用を失ったものが脂肪になる。つまり、骨髄は骨の構造物質なので、骨を煮て脂肪だけを取り出すならともかく、食物としては骨と骨髄を分けることは現実的ではない。

 骨のかけらをしゃぶっていれば、養分がしみでてくるというのである。駄目押しとして富山県食品科学研究所による骨と豚肩肉との栄養分析比較を提示しているが、なるほど、栄養的には問題なさそうである。まとまった骨髄は手足の骨にしかないことを考えれば、骨髄食よりも骨食の方が食いっぱぐれがないのは確かだ。著者はこう断定する。

 初期人類の手と歯は、骨を主食とするために必要不可欠の条件をすべて満たしている。どんな大きな骨でも砕くことができる石を握りしめる大きな親指のある手と、硬度4の骨を砕いてすり潰すことのできる硬度7(水晶と同じ硬さ!)のエナメル質に厚く覆われた歯によって前後左右上下のすり潰し運動を可能にした平らな歯列こそが、初期人類の主食である骨を開発した道具セットである。

 われわれの祖先はサバンナに転がっている骨をしゃぶって生きのびてきたのだろうか。豚骨ラーメンでも食べながら、初期人類を偲んでみよう。

→紀伊國屋書店で購入