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『マラルメの「大鴉」』 パッケナム&柏倉康夫 (臨川選書)

マラルメの「大鴉」

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 1875年、33歳だったマラルメは学生時代から念願だったポオの「大鴉」の翻訳を、マネの石版による挿画6葉をえて、版画社という個人経営の出版社から二折版七ページの豪華本として上梓した。二折版は新聞よりも一回り大きな版型で、製本されていなかったようだから、本というよりは画帖といった方が適切かもしれない。

 定価は中国紙刷が35フラン、オランダ紙刷が25フランだった。同時期にマラルメが編集していたファッション誌『最新流行』が色刷版画つき1.25フラン、版画なし0.5フランだったこと、マラルメの英語教師としての初任給が年俸2400フランだったことを考えあわせると、当時の1フランは今の1000円くらいだろうか。とすると、25フランは2万5000円前後になる。

 豪華本『大鴉』は240部印刷され、現在、60部ほどの現存が確認されている。古書店では1500万円の値段がついているそうであるが、1875年時点ではマラルメはごく一部で知られるだけだったし、マネはお騒がせ画家としての知名度はあったものの、まだ本格的な評価はされていなかった。『大鴉』はたいして売れず、版画社を主宰するレスクリードは刊行の1年半後、破産する破目になる。

 マラルメとマネの『大鴉』は出版史上有名な本だが、1994年にレスクリードの書簡がまとまって発見されたことにより、出版前後のごたごたが詳細に明らかとなった。本書はレスクリード書簡を発見したパッケナムの著書の邦訳に、柏倉康夫氏が長文の解説をくわえて刊行した本である。巻末には『大鴉』の全ページが写真版で掲載されている。

 パッケナムの本はレスクリードの書簡を中心に、マラルメやマネらの返信、新聞雑誌に掲載された広告、書評までを時間順に配列していて、実に興味深い。当時はまだカーボン紙は発明されていなかったが、プレス機で薄葉紙にコピーする技術があり、出版社を経営するレスクリードは自分が出した手紙のコピーをすべて保存していた。残念ながら返信は一部しか残っていないが、それでも経緯はよくわかる。

 レスクリードはスポーツ紙の走りである「挿画入り自転車」新聞を創刊したり、普仏戦争でパリがドイツ軍に包囲されると、飛行船を使ってパリのニュースを地方に届ける「飛行船郵便/包囲されたパリ」を発行したりと、アイデアが次々と湧いてくるタイプの出版人だったらしい。1973年に「版画のパリ」誌を創刊して美術分野に乗りだし、1974年にはシャルル・クロスの『河』をマネの挿画つきの豪華本として出版している。

 ところが『河』はまったく売れなかった。レスクリードは失敗の原因を宣伝不足と総括し、二冊目の豪華本となる『大鴉』では新聞・雑誌に広告を出し、書店にはポスターをくばり、さらに書評を載せてくれそうなところに大量の献本をばらまいた。

 万全の策を講じたはずだったが、レスクリードの思惑通りにはいかなかった。まず、印刷が遅れた。マネは刷りに細かく注文をつけ、刷り直しを要求して高価な紙を無駄にした。マラルメは一度わたした原稿に執拗に直しをいれ、校正を延々と引きのばした。印刷費用がかさんだだけでなく、予告した発行日を延ばさなければなくなり、広告を出し直すことにもなった。

 パッケナムはレスクリードを「善意のかたまり」と評しているが、マラルメとマネの非常識な要求に手紙の文面はしだいに険悪になり、刊行直前の5月27日付マラルメ宛書簡ではついにこんな悲鳴をあげている。

親愛なる詩人殿

 それがどれほどの遅れを私たちにもたらすかは分かりませんが、私は気力を削がれています。

 私は非難の的になっていますし、果てしない遅延に、明らかにうんざりしている多くの書店の罵詈雑言を浴びています。

 この仕事は誠実な契約に基づくものと信じており、あなたにそれを申し上げるのは、こうした凝った出版の場合は、才能の有無以前に、期日を守ることが不可欠だからです。

 私たちはすでに――出版の経費以外に――百から百五十フランの無駄な経費を費やしています。本当に希望がもてる仕事に、これ以上のお金を失わないで済むかどうか疑問に思いはじめています。

 マネとマラルメという完全主義の権化のような芸術家二人とつきあったのが運の尽きである。

 さて書評であるが、一番期待していた「フィガロ」紙にはとうとう載らなかった。多くは義理で誉めてくれたが、辛口の書評を載せるところあった。たとえば、6月5日付の「ル・ゴロワ」紙である。

 マラルメ氏は、「ル・ゴロワ紙」の読者にとってはまったく未知の人というわけではない。数ヶ月前に「高踏派の人々」に関する記事が掲載されたが、氏はこの流派のなかでも最も変わった人物として紹介されていた。よきにつけ悪しきにつけ、評論家から重んじられている人物である。

 マラルメ氏はもちろん英語に堪能で、「大鴉」を字句に出来る限り忠実に翻訳した。ボードレール以来の大変な力業である。まずは詩の第一節の訳をテクスト通りに採録して判断してみよう。

 ……中略……

 確かにこれは字句通りの訳である。それ以上云うことはない。ここにはすべてが訳されている。それは英語というより、米語を忠実に、その技法を含めて写しており、ほとんど電文といったところである。だが、われわれはアメリカ人ではなくフランス人であり、もう少しはっきりと、角を丸めて[訳しても]、この不思議な詩の意味や色合い、とりわけ深い憂愁を損なうことはなかっただろう。マラルメ氏は正確を期そうとして、「ネバー・モア」というこの素晴らしい凋落の感じを、完全に失ってしまったように見える。翻訳は干からびたものになってしまった。

 わたしにはマラルメの訳文を云々する力はないが、やはりという気がしないではない。

 パッケナムの本は『大鴉』刊行から11年後の1886年4月、デュジャルダンの『疲れた人々』の裏表紙に載ったヴァニエ書店の『大鴉』の残部ありますという広告で終わっている。マラルメの文名があがってきたので、どこかに眠っていた『大鴉』の売れ残りが表に出てきたということだろう。

 ポオの「大鴉」は日本でも日夏耿之介の名訳がドレの挿画つきの豪華本で出版されている。三千円くらいの普及版も含めて何種類かの版があるが、現在はどれも絶版である。訳文だけなら『伝奇ノ匣』という文庫本でも読めるが、あの絢爛たるバロック調の日本語は大型本でゆったり読みたい。

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