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『敗走記』 水木しげる (講談社文庫)

敗走記

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 表題作を含め6編をおさめる戦記漫画短編集だが、どれも読みごたえがあり完成度が高い。貸本時代の作品とメジャーになってからの作品が混在しているが、貸本時代の作品は描き直されているのですべて細密画風の現在のタッチである。もし水木の戦記ものを1冊だけ読みたいなら本書がお勧めである。

「敗走記」

 『総員玉砕せよ!』の原型にあたる作品で、「別冊少年マガジン」1970年2月号に掲載。

 昭和19年、ニューブリテン島の最前線を守る分隊が爆撃と機銃掃射で全滅してしまう。歩哨に立っていた主人公は助かりもう一人生き残った鈴木とともに30キロ離れた中隊司令部に向かうが、一帯の原住民は連合軍から武器を支給されて日本軍と敵対しており敵中を突破するに等しい。

 主人公はなんとか中隊にたどりつくが、歓迎されるどころか敵前逃亡罪に問われるという不条理。『総員玉砕せよ!』のエッセンスがここにある。

「ダンピール海峡」

 貸本時代の作品を描き直して「文春漫画読本」(文藝春秋社)1970年7月号に発表したもの。貸本版(『鬼軍曹』に収録)は61頁だったが、改作版は40頁に圧縮されている。絵柄はオリジナルに似せているが荒々しさはない。

 ダンピール海峡とはニューブリテン島ニューギニア島を隔てる海峡で多くの日本の輸送船が沈められた。本作は輸送船が撃沈され海に投げだされてなお軍旗を守ろうとする軍旗衛兵たちの話で最後は怪奇譚になる。どこの国の軍隊でも軍旗は物神的に崇拝されるが、日本軍の軍旗崇拝はことのほか強烈だったので、こうような鬼気迫る話が生まれたのだろう。

「レーモン河畔」

 「ビッグゴールド」(小学館)1980年6月号掲載の短編。戦争で一番迷惑をこうむるのは戦場となった場所にいた民間人だが、これは日本軍とオーストラリア軍の境界地帯に住みながら全員無事に戦争終結をむかえた幸運な一家の実話である。

 ホセはフィリピンからの入植者でレーモン河畔に椰子農園を拓いていた。妻はドイツ人で二人の娘は日本人と結婚していたが、大東亞戦争がはじまると日本人の婿はオーストラリア軍の収容所にいれられてしまう。

 昭和17年、日本軍がラバウルを占領しホセ一家の農場をはさんでオーストラリア軍と対峙するようになると一家は微妙な立場に追いこまれる。婿をオーストラリア軍に人質にとられているのでスパイにならざるをえないが、スパイだとわかったらおしまいである。事実スパイの嫌疑を受けるし二人の娘を慰安婦にしようという話が持ちあがるが、日本軍守備隊の隊長と末端の兵士たちの温情によってラバウルの収容所に送られることになる。一家が最後のダイハツラバウルに去った後、農場は激戦地となり守備隊は玉砕する。

 日本の敗戦後、二人の婿はオーストラリア軍から解放され一家はふたたび農場を再開する。

 事実は小説より奇なりとはいうがこんな話があったのかと啞然とした。「白骨は何も語らないが……即ちみんなで助けてやろうという意志が働いていたことは確かだと、ぼくは思う……」という結語が心に響く。

「KANDERE」

 1980年に「カスタムコミック」(日本文芸社)第7号に掲載。ブーゲンビル島の沖にあるグリーン島の守備隊が奇跡的に生還する話である。表題の「KANDERE」とは現地語で「同族」を意味し、二等兵の津田が酋長の娘と恋仲になり分隊長の許可をもらって結婚したことから分隊全体が「同族」としてあつかわれることになる。奇跡の生還は「同族」になったおかげなのであるが、そこにいたるまでにはさまざまな曲折があった。原住民との一筋縄ではいかない関係や生き残った者の葛藤が描かれていて、実際はこうだったのかという驚きがある。

「ごきぶり」

 「サンデー毎日」(毎日新聞社)1970年2月6日増刊号「これが劇画だ」に掲載。

 水木しげるの兄は戦犯で巣鴨プリズンで服役したが、巣鴨で見聞した実話がもとになっているという。

 隼搭乗員の山本はニューギニア上空の空戦で被弾しジャングルに不時着する。原住民につかまって捕虜収容所にいれられるが、作業中、監視のオーストラリア兵に男色行為を迫られ抵抗しているうちに誤って殺してしまう。そのまま脱走して友軍に助けられるが、敗戦後、戦犯と死刑判決を受ける。別の刑務所に送られる直前脱走し在留邦人にまじって帰国するが、故郷で待っていたのはGHQの手先となって戦犯狩りをする日本の警察だった。山本は妻を連れて北海道に逃げるが、結局逮捕され再度死刑判決、一年後処刑される。遺骨をわたされた母親は「むすこの一生はまるで逃げまどうゴキブリのような一生じゃった……」とつぶやく。

「幽霊艦長」

 本作は1961年に曙出版から長編戦記漫画第二弾として出た『駆逐艦魂』の改作版で月刊「少年」1967年9月号の別冊付録として発表された。曙出版版は小学館クリエティブから「完全復刻版」として再刊されている。

 日本海軍の最後の勝利とされる昭和17年のルンガ沖夜戦をもとにしたフィクションである。実際の戦闘を指揮したのは田中頼三少将で生還しているが、本作では司令が戦死したので白髪を振り乱した幽鬼のような宮本艦長が指揮し、ラストでは魚雷にまたがって敵艦に突入するという壮絶な最期を遂げている。もちろんフィクションであるが、史実に即した海戦の経過は『白い旗』に収録された「田中頼三」で読むことができる。

 曙出版版の143頁を50頁に圧縮しており、ストーリーは史実に近づける方向で改変されている。絵は本作の方が精密になっているが、迫力は曙出版版の方がある。

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