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『一葉のポルトレ』小池昌代【解説】(みすず書房)

一葉のポルトレ

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 一葉を見知った人たちによる、作家の肖像(ポルトレ)。


 研究書のみならず、彼女にまつわる書物は数しれず、映画にもなり、お芝居にもなって、それでもなお、一葉の世界に惹かれる者にとって、その人となりへの興味は尽きることがない。

 肖像の語り手には、戸川秋骨馬場孤蝶といった、一葉宅を頻繁に訪れていた「文学界」関係の人たちをはじめ、明治の文人たちの名が連なる。あるいは、歌塾・萩の舎でともに学んだ親友・田辺夏子、そこで中島歌子の代稽古をしていた一葉に学んだという疋田達子(詩人・戸川残花の娘)、そして、誰よりも一葉の助けとなった妹のくに子など。

 直接交流はなくとも、偶然眼にしたその面影を鮮やかに描き出しているのは薄田泣菫である。上野の図書館、男ばかりの館内で、ふと女の気配に振り向くと、その人は目録を繰り、側らの妹らしき人とひそひそと話をしていた。

 ……その人はやっと目録を繰り当てたかして、手帳に何か認めようとして、ひょいと目録台に屈んだかと思うと、どうした機会(はずみ)か羽織の袖口を今口金を脱したばかりの墨汁(インキ)壺にひっかけたので、墨汁はたらたらと机にこぼれかかった。周囲の人たちの眼は物数奇そうに一斉に婦人の顔に注がれた。その人は別にどきまぎするでもなくそっと袂に手を入れたと思うと、真っ白なおろしたての手巾を取り出して、さっと被せるが早いか手捷(てばしこ)く墨汁を拭き取って、済ました顔でこっちに振りむいた。口元のきっとした……そして眼つきの拗ねた調子といったら……

 女の図書館通いなど滅多にない当時、周囲の眼や係員の対応に辟易としていた一葉の気負いがほとばしっている。すごい場面に出くわしたものだなあ。

 ただ一度、その姿を見かけたに過ぎない泣菫にも、印象深く認められた一葉の拗ね者ぶりについては、おおくの人たちが言及している。

 話振や容子は落付いて淑やかなところがありました。他(ひと)の批評などは努めて避けられていたようでした。それでいて折々鋭い調子で何かこう冷笑するような処もありました。(戸川秋骨
 

 そのとりなしから言葉づかいがいかにも世慣れて垢ぬけがして居られたのがまず意外に思いました。改らぬ話しのなかに利発などこか勝気な、そしてどこかすねたところのあるなと思わせました。(岡野知十)

 戸川君も馬場君も樋口一葉君の紹介で緑雨と親しくなったのでろあうが、その一葉と緑雨の取組こそさぞ見物であったろうと思う。二人とも、徹底的に世をひがんでいる拗ね者である。女であるので相手によっては「源氏」の作者以上に慎み深くもしていたが、一と度興に乗じると、老妓、女将そっち退けの大気焔をあげるのが一葉君であった。(平田禿木

 それから又応対が巧みであった。進退動作節に合して決して人を反らせさない、是迄の生涯が如何に辛労の生涯であったなは是によっても察せられる、婦人で少し学問でもある者は漢語などを殊更に交え至極生意気臭いものだが、女史に於ては決して、そう云う事はなかった、能く消化の出来た言葉付(ことばつき)であった。(幸田露伴

 文学仲間というべき人たちに囲まれ、彼等と言葉巧みにやりあう女文士・一葉がそこにはいる。

 一方、女性たちが語るのはまた別の一葉、お夏さん、夏ちゃんと呼ばれた明治のひとりの女の姿である。

 「萩の舎」で一葉に学んだ疋田達子は彼女を「お夏さん」と呼んで親しみ、頼りとしていた。家を訪ねれば、貧しいなかでも精一杯のもてなしをしてくれる一葉を「ほんとうに人なつっこいところのある人でした」。

 三宅(田辺)花圃が一葉と初めてあったのは十七のとき、一葉はそのふたつ年少で、すでに萩の舎の塾生だった。花圃が中島歌子をたずねたとき、もてなしの給仕をしていたのが一葉で、その第一印象は「変わった人」。

 花圃が、寿司の皿に赤壁之賦の一節が書かれてあると連れの女性と話していると、一葉がその後の文句を「ペラペラと読み初めた」というのは有名なエピソード。「なにせよその頃の夏子は才気が溢れて止められぬと申すような風でした」。後年、幸田露伴が「能く消化の出来た言葉付(ことばつき)であった」と語った一葉にも、そんな娘時代があったのだ。

 あるいは、三宅雪嶺のもとに嫁いだばかりのころ、それまでのお嬢さん暮らしから一転、粗末な着物に身を包んでいる花圃を見た一葉は、「こんな服装(なり)をするようになってお可哀相」と大泣きしたとか。「まあこういう風に実によく泣く人でした」。

 萩の舎で最も親しくしていたのが同い年の田辺(伊東)夏子。同じ名ゆえ、「イ夏ちゃん」「ヒ夏ちゃん」と呼び合い、お互いの家もよく行き来していた。

 お嬢様がたの集う〝お教室〟だった萩の舎で、ふたりと同じく平民の娘だった田中みの子も交えた仲良し三人組は、あけっぴろげなおしゃべりに花を咲かせていたらしいが、「諷刺的なことをたまにいわれるくらい」で、他人の悪口は決して言わないのが一葉。「いくら親しくても何だか靄のかかっているというような人で、もう少し打ちとけてザックバランになってくれればいいのにと思ったくらいでございます」。

 男たちの一葉に抱く印象が似たり寄ったりなのとくらべ、年下、年上、同い年、それぞれの女性が語るその様子からは、一葉の人との距離のとりかたがみえる。一葉が自然、相手におうじて使い分けていたのはもちろんのことで、どちらが素か、ほんとうの顔かは問題ではないけれど、男と女ではやはり見るところが違っていておもしろい。

 先の男女のどちらとも違うかたちで、一葉の内なる部分に接近していたのは、小説修行の師であり、おもいびとでもあった半井桃水ではないだろうか。桃水自身、そうだとは気づいていなかったかもしれないが。

 一葉の死後刊行された全集に日記が収録されたことによって、一葉が桃水を恋慕していたことが明らかとなる。そのため、方々から問い合わせが殺到、の憂き目に遭っていた桃水が書いたのが「一葉女史の日記について」。

 「私は何人に対しても、故女史とは親友であった、言得べくんば兄妹であったヨリ以上の何事もなかったと、常に明言して居たのである」とする桃水。

 ここで桃水は一葉の手紙を参照する。師弟とはいえ独身の男女という間柄、よからぬ噂がたち、ふたりの交流が途絶えていたときに、一葉が寄越したものだ。一葉はここで、桃水のことは師として兄として慕っているのだと書き、あらぬ噂のために会えなくなった悔しさを切々と訴えていた。

 そのあとで桃水はこのように述べる。

 女史が私に送られた手紙を見て、何か凡ならぬ関係でもあるように思いあたる人もあったので、常に私は女史に向かい、こういう事を警告した、男は対話で打解けても手紙の上では打解けぬが、それに反して御婦人は対話の時に打解けず手紙の上で打解ける。それゆえ艶めかしい文字を列ねて往々あらぬ疑いを招ぐような事も起る。貴嬢ほどの文章家でもこの欠点は免かれぬ、好く好く注意せられたいと、畢竟こんな無遠慮な事をいったのも、女史の胸底には恋の影だにも映る事をゆるされぬと思詰めて居たからである。

 日記が公表されてもなお、自分と一葉との間に恋愛感情などあってならないのだと言いはる桃水なのだった。それはそうと、女は手紙だと打ち解ける、という桃水の指摘を、一葉はどう聞いただろうか。桃水の〝無遠慮〟は、一葉にしてみれば、桃水の思うのとは逆の意味で〝無遠慮〟に聞こえたかもしれない。そのことによって、一葉は手紙という私的な「書くこと」のなかで列ねていった自らの言葉を対象化することができ、それがその後の一葉の「書くこと」の糧となったかもしれない。

 妹の樋口くにの語るのは、家族でしか知りえない一葉の姿だ。

 すきなもの嫌いなものなどというものはなかった人でして、人に逆らうなんてことは殆どなかった人でございます。いやな時には自分が泣いてしまえばすむといっておりました。で、普段どういう人であったかといわれると困るので、それほど際(きわ)のない人だったのです。それともはたから見たらばどう見えたのか知れませんが、家の者にはそうは見えませんでした。

 ……姉にとっては自分の書いたものが活版になることはどんなに驚きであったでしょう。後々皆様がほめて下さる。それを拝見する度に恐ろしいように思っていました。たとえ今はほめられても今後のことをおもうと恐ろしいと思ったのでしょう。斎藤緑雨さんがおいでになってから、殊更恐れを持ったようでした。も少し大胆になれば余程よかったので御座いましょうが、何分世間馴れぬし、又自分が力およばぬとて大変心配して居りました。も少し世のことがよくわかる様になってから書いたらば、もっと楽に書けたのではないかと今おもってもそれだけ残念です。最近皆様の立派なのが出るのを見ましても生きていて勉強していたらばとも思いますが、一方からいえぱ、かような時代の変化を、ああいう偏屈な頭で小さく考えていましたらば、今まで到底生きていられようとも思えません。あれこれどっちがどうと一概にはいえまいかと思うので御座います。

 それぞれの一葉像。もし当人が読んだら。拗ね者らしくとりなすだろうか。けれども、妹の言葉には、ただ黙って耳を傾ける一葉の姿が目に浮かんだ。


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