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『森鷗外論 「エリ-ゼ来日事件」の隠された真相』 小平克 (おうふう)

森鴎外論―「エリ-ゼ来日事件」の隠された真相

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 最近『舞姫』のエリスのモデルと考えられるエリーゼ・ヴィーゲルトについて決定的な発見があり、エリス問題が再びかまびすしいが、そんなことは所詮モデル探しにすぎず、文学とは関係がないという見方もなりたつだろう。

 エリーゼが『舞姫』という一短編のヒロインのモデルにすぎなかったらその通りにちがいないが、鷗外が彼女のことを終生思いつづけ、多くの作品に陰に陽に彼女の面影を書きこんでいたとしたら、文学と無関係とはいえなくなる。

 諦念の人といわれ、『ヰタ・セクスアリス』で性欲を冷笑的に腑分けしてみせた鷗外に一人の女性を思いつづけるなどということがあったのだろうか。

 小堀杏奴は『晩年の父』で鷗外がエリーゼと文通をつづけ、亡くなる直前に彼女の写真や書簡をすべて焼却したという話を伝えているが、「はじめて理解できた『父・鷗外』」(1979)という文章では小学校に通う途中にある荒物屋の十三、四歳の少年店員が彼女に「生き写し」だったと語っているという。この話の後日譚は岩波文庫版『晩年の父』(1981)の「あとがきにかえて」にあるが、1979年の文章の方が生き生きしているので、孫引きになるが引いておく。

 この少年について、後に母が、少年が独逸時代の父の恋人に、生き写しだと、父が語っていたと教えてくれた。この母の話の方は、私が結婚してから聞かされたように思うから、多分、『晩年の父』には出てこないはずである。母の言葉で、今更に私は、遠く、幼い日々を振返り、感無量であった。少年と語り合っている私や、弟を、軍服姿の父が、微笑を湛え、じっとみつめていた一瞬の表情が、突如、まざまざと、眼前に浮かんだからである。

 少年に似ていたというのだから、エリーゼは凛々しい顔立ちだったのだろう。杏奴の女友達の中にもエリーゼと似ている女性がいたというから、そうした人物の若い日の写真を集めれば鷗外の記憶に残るエリーゼの面影に近づけるかもしれない。

 本書は「「エリ-ゼ来日事件」の隠された真相」というスキャンダル追求めいた副題がついているが、来日事件にかかわるのは最初の二章だけで、後半の三章はエリーゼが鷗外の文章に残した跡を追跡している。『舞姫』は当然として、別離から20年以上たってから書かれた『うた日記』、『青年』、『雁』、そして遺言にまで彼女の影が揺曳しているという。

 著者はまず存在が隠されていた「空白期」、「路頭の花」とされた「エリス期」、船客名簿から本名がわかって後の「エリーゼ期」の三期にわけてエリーゼ像の変転を跡づけ、第二章では鷗外はエリーゼと結婚するために軍医辞職願を提出していたという仮説を立てている。

(本書は来日した女性を「エリーゼ」と表記しているが、エリーゼ・ヴァイゲルト説をとっているわけではなく、正体は不明という立場である。六草氏の発見によって著者の留保は結果的に正解だったことがあきらかとなった。)

 軍医を辞めるつもりだったではなく、実際に辞表を出していたとは大胆であるが、鍵となるのは母峰子が10月6日に篤次郎と小金井良精に嫁いでいた喜美子を同道して石黒忠悳の私宅を訪ねていた事実である(小金井喜美子は著書ではこの訪問には触れていない)。

 中井義幸氏の『鷗外留学始末』によると石黒は留学中の部下を手なづけるために、石黒自身が留守宅を訪ねたり、妻に命じて家族ぐるみのつきあいを演出させていたから、峰子が弟妹を連れて石黒宅を訪問したこと自体は著者が考えるほど異例の事態ではないと思われる。しかし訪問の理由が特段ないことを考えると、辞表を撤回させるから待ってくれるように懇願にいったという本書の推定は十分説得力を持つ。著者は4日後の鷗外の石黒訪問が辞表撤回だったとしている。

 辞表提出と撤回が事実だとしたらまさにスキャンダルだが、あくまでエリーゼが鷗外の「永遠の恋人」だったことを明らかにして後半の議論の地がためをするためである。

 第三章では『舞姫』の執筆が赤松登志子とのあわただしい結婚と離婚と密接に関連していたことが論証される。『舞姫』は登志子夫人の妊娠中に書かれていた。登志子夫人は出産早々子供をとりあげられ離縁させられてしまうが、妊娠して捨てられ、発狂するエリスの物語をどのように受けとったのだろう。

 第四章ではエリーゼ事件から20年上たって上梓された『うた日記』を俎上にのせる。「扣鈕」の「こがね髪 ゆらぎし少女」がエリーゼであるとは森於莵が指摘したことだし、「べるりんの 都大路」が回想の背景となっていることからも動かない。

 著者は「夢がたり」の

触角を     長くさし伸べ

物来れば    しざりかくろふ

隠処の     睫長き子

人来れば    かくろへ入りて

我を待ち居り

という「蟋蟀」に来日時のエリーゼの面影を見る。隠し妻といいうことだけでいえば離婚後に峰子があてがった児玉せきも候補だが、彼女の容貌は「睫長き子」という形容にそぐわない。「蟋蟀」は異国のホテルで鷗外を待っていたエリーゼだというのが著者の解釈である。

 官能的で謎めいた「花園」がエリーゼのイメージで解けるという指摘は魅力的である。エリーゼを補助線にすると確かによくわかるのである。

 第五章では『青年』、『妄想』、『雁』、『ヰタ・セクスアリス』をとりあげているが、一番納得できたのは『雁』だ。

 山﨑國紀氏は『評伝 森鷗外』でエリーゼ=お玉説を提唱したが、小平氏はむしろお玉が鳥籠にいれて飼っていた紅雀エリーゼを見ている。

 来日したエリーゼは築地精養軒にとめおかれたまま、彼女を排斥する森家親族の圧力に耐えていたのであって、まさしく彼女は「窓の女」であり、「鳥籠の紅雀」であった。この紅雀が「つがい」であるのは、鷗外が彼女と結婚するつもりで来日させていることをあらわすものであろう。この「つがいの紅雀」を襲う蛇は、二人の結婚を忌避する森家親族の暗喩なのではないか。襲われた蛇にくわえられてぐったりとなった一羽の紅雀は鷗外であって、「籠の中で不思議に精力を消耗し尽くさずに、まだ羽ばたきをして飛び廻ってゐる」もう一羽の紅雀は、『小金井日記』と『石黒日記』との関連的な推論によってひきだされた「エリーゼ来日事件」の経過からみてエリーゼの姿そのものに思える。

 『ヰタ・セクスアリス』については性欲と恋愛を分離する主人公の冷笑的な態度にエリーゼ事件で受けた心の傷を読みとっている。エリーゼ以外の女性は性欲の対象としてしか見ることができなくなっていたというわけだ。

 一歩間違えれば我田引水の深読みになってしまうが、著者の読みは十分議論に耐えると思う。鷗外作品はエリーゼという視点から読み直してみるべきだろう。

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