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『鷗外留学始末』 中井義幸 (岩波書店)

鴎外留学始末

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 表題は「留学始末」となっているが、上京した頃から説き起こし、ドイツ留学から帰って赤松登志子と結婚するまでを語っている。山﨑國紀氏の『評伝 森鷗外』でいうと33ページから109ページにあたる時期に340ページを費やしている(山﨑本は頁あたり1.6倍の文字数がはいるから、正味でいうと3倍の分量か)。

 「始末」という表題が暗示しているように本書はシニカルな見方で一貫している。相当な辛口だが、他の著者がぼやかしていることをずばり書いてくれているのでいくつもの疑問が氷解した。

 詩、書簡、日記、関係者の回想、写真といった一次資料に語らせる手際もあざやかである。留学中、鷗外と家族の間では書簡の往来が密だったが、ライプチヒで撮った肖像写真を前にした家族の会話を篤次郎は一人一人の口調を真似て次のように報告し、千住の森家の茶の間を覗き見るような臨場感がある。

〔母君〕コリヤア大層善ヒ男ニナツタ、コレナラ新橋ノ○八デモ何デモ上三かみさんニシテモ羞シクナイ、「タンネン」ノ娘三じょうさんニ見セテヤリタイ

〔潤坊〕コレハ家ニアル「ビスマルク」ノ写真ニ善ク似テ居ルノダヨ

〔父君〕コレハ本ニドウシテモ二百円以上取ル勅任官ト見エルナア

 父静雄が月給を引きあいに出したのは金に苦労したからだろう。静雄は藩主亀井茲監にしたがって鷗外を連れて上京し、向島で開業したが、田舎出の元藩医では患者が集まらず、郡医に任命されるまで家計はつねに逼迫していた。

 鷗外は西家に住みこんだが、西周は鷗外だけは本郷の進文学舎でドイツ語を学ばせた。西は学問の基礎は漢学にあると考え、自邸に集めた親類の少年たちを漢学塾に通わせたが、鷗外だけは既に漢学の基礎ができていたのでいきなり洋学を学ばせた。この特別扱いの背景には鷗外を海軍に進ませた養子の紳六郎とならぶ次代のホープにしようという西のプランがあった。

 進文学舎は十人の小クラスでドイツ人からじきじきにドイツ語を習うという理想的な環境だったが、学費が高かった。鷗外は西周の西洋仕込みの規律が嫌になり父親のもとにもどるが、教科書一冊が父の侍医としての月給の1/3では、西の援助なしにドイツ語の勉強ををつづけるのは不可能だった。鷗外が11歳で官立医学校(後の東京帝大医学部)に入学した件は鷗外の秀才を証明するものと語られるのが常だが、医学校に入学するために進文学舎を退学したのではなく、進文学舎の学費を払いつづけることができなかったので、年齢を二歳偽ってまで医学校の入学を早めたというのが実情だった。

 医学校の卒業席次が八番になった理由を山﨑氏の評伝では「シュルツ教授が、鷗外の外科学の講義ノートに漢文の書き込みがあるのをみつけ、反感を買ったためとも言われている」としていて何のことだろうと引っかかっていたが、本書によると祖父の残した医書で漢方医学を独学していたためである。

 林太郎の東洋医学の勉強は、学校の西洋医学の勉強に使うべき時間を削ったのみならず、その成果を彼が教室に持ち込んでドイツ人教師たちの授業で主張したため、彼らの不興を買い、二重に成績を落とす力として働いた。

 ドイツ人教官にとって漢方医学などは未開の迷信にすぎない。その迷信を授業中に教官にぶつけるとは無謀というべきか誇り高いというべきか。ナウマンとの論争やカールスルーエでの演説、さらには晩年の史傳三部作を生みだす素地は十代の頃にすでにあらわれていたわけである。

 医学校卒業後、留学生の選に漏れて就職浪人のようになっていた鷗外は陸軍にはいり、一転してドイツ留学を果たす。鷗外の陸軍就職は同級生の小池正直の推薦状によるものとされることが多いが、この推薦は石黒忠悳の意を受けたものであり、その背後には鷗外に順天堂閨閥の次代をになわせようという西周の意向が働いていた。任官したての鷗外が軍医本部付という破格の待遇を受けたのはそのためである。

 当時軍医総監だった林紀は松本良順の甥、部内第二のポストである東京陸軍病院長の佐藤進は順天堂主佐藤尚中の養子と、順天堂一族の陸軍軍医部支配はゆるがないかに思われたが、林軍医総監がヨーロッパで客死し、佐藤進軍医監が順天堂を継ぐために退官した結果、橋本左内の末弟である橋本綱常が次の軍医総監に就任した。

 留学中の鷗外は順天堂閥を頼んで独断専行が多かったが、橋本が軍医総監になると無理が通らなくなり橋本とぶつかるようになった。橋本と鷗外の間にはいったのが石黒忠悳である。

 石黒は橋本の同期だったが、何の後ろ盾もなく留学もしていなかったので橋本の下僚になるしかなかった。石黒は鷗外の味方をすることで軍医本部内の地歩を固めようとした。

 石黒はエリーゼ来日問題の当事者の一人なので関連本には必ず登場するが、本書の以下の条を読んでようやく人物像が定まった。

 一切の門閥に縁のなかった石黒は、生まれながらには恵まれなかった人脈を、みずからの手で築いていったのである。茶人況藤として権力の座にある者達と風雅の交わりを結び、医者としてみずから脈をとって次々と彼らの信頼をかち得ていった彼は、一旦結んだ交わりを維持するためにはいかなる労をも厭わなかった。あらゆる知人に宛てて絶えず手紙を書き、病ある者の家には毎日でも出かけて行き、外国へ出て行った者の留守宅を訪ねて家族の無事を知らせやる便りを書き送った。こうして築いていった人脈の輪が広がるにつれて、石黒忠悳はもはやただの軍医ではなくなり、情報通として重宝がられ、人々に憚られる存在となっていった。ことに彼は山県有朋に友人として遇せられ、世に恐れられたこの権力者の家に自由に出入りする数少ない人間の一人になっていたのだ。

 鷗外はたびたび石黒を軽んずる振る舞いをしたが、石黒は二枚も三枚も上手で、橋本から庇護する風を装いながら鷗外を持ち駒としてあやつり、カールスルーエの国際赤十字大会における鷗外の演説の成功を自分の手柄にすりかえ、軍医総監昇進に利用する老獪さを示した。

 鷗外は他の留学生から離れ、一人パリに寄ってからベルリンにはいったが、『舞姫』に先立って発表した『航西日記』にはシャンゼリゼのホテルに泊まったというそっけない記事があるだけでパリの見聞記は含まれていない。鷗外はパリに何も感じなかったのだろうか?

 著者は『舞姫』で豊太郎がベルリン一の繁華街ウンター・デル・リンデンに感嘆する条は実はシャンゼリゼ体験だと指摘する。引用で逐条的に示されているが『舞姫』のウンター・デル・リンデンの描写は岩倉使節団の『米欧回覧実記』のシャンゼリゼの条を下敷きにしている。当時のウンター・デル・リンデンはシャンゼリゼとは比べようもなく『舞姫』に描かれているような「漲り落つる噴井の水」もなかった(噴水があるのはコンコルド広場)。著者は鷗外は『舞姫』の手の内を隠すために『航西日記』から意図的にシャンゼリゼとウンター・デル・リンデンの感想を省いたとしている。

 本書は鷗外の留学生活の実態も身もふたもなく描いている。鷗外は衛生学の研究を命じられて渡欧したが、衛生学よりも当時最先端の細菌学に関心をもっていた。ベルリンに来て念願のコッホ研究所にはいるが、助手から初歩的な講義を受けてから下水の細菌調査という課題をあたえられたものの、汚れ仕事を嫌って引き伸ばしたあげく屠場の排水でごまかしている。衛生学も細菌学も「研究」というレベルではない。鷗外がドイツで熱心に励んだのは晴れがましい場で目立つことと文学書の耽読であり、地道な医学研究とは縁遠い生活をしていたようである。

 ベルリン時代の鷗外はそれまでの勝手がたたって下級軍医のやる隊付勤務(兵舎の当番医)を懲罰的にやらされるが、その間にも石黒のために報告書の材料を集めさせられたり情婦のお守りをさせられたりしている。

 最後の章ではエリス問題をあつかっているが、著者はエリスのモデルの女性に対しても辛辣な視線を向けている。カフェ・クレップスにたむろする娼婦説をとり、来日は彼女が勝手に決めたことで旅費は自分でまかなったとしている。六草いちか氏の『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』が出た現在ではそのまま受けとれないが、エリス関係以外に関しては本書の価値はすこしも減じていないと思う。

 なお「岩波人文書セレクション」として再刊するにあたり、2010年時点における未刊行資料の情況を巻末で紹介している。きわめて貴重な情報である。

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