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『北朝鮮の軍事工業化』 木村光彦&安部桂司 (知泉書館)

北朝鮮の軍事工業化

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 李榮薫『大韓民国の物語』で知った本で「帝国の戦争から金日成の戦争へ」という副題がついている。

 日本は日中戦争継続のために朝鮮半島満洲兵站基地にしたが、特に現在の北朝鮮地域には多数の鉱山を開き最先端の重化学工業地帯を建設した。戦争には兵器と弾薬だけでなくさまざまな工業製品が必要だが、北朝鮮地域にはそれを供給する鉱山群と工場群があったのだ。日本本土の生産施設はアメリカ軍の爆撃で完膚無きまでに破壊されたが、北朝鮮地域の産業施設はソ連軍の手をへてそっくり金日成に引きわたされた。それは1945年時点では世界有数の規模であり、アジア最大級の生産力を誇っていた。

 だとしたら朝鮮戦争の準備には日本統治時代に構築された産業施設群が使われたのではないか。金日成が開戦に踏みきれたのは日本の遺産があったからではないか。

 まさにコロンブスの卵のような視点だが、これまでこういう研究がなかったのは植民地収奪論の呪縛が大きかったからだろう。

 本書は「前編 1910-1945年」と「後編 1945-1950年」にわかれる。

 前編は1945年8月時点で朝鮮半島に残されていた日本企業の資産目録である。日本の敗戦後、内務省は各企業に朝鮮に保有する資産の概要を報告させた。著者たちはその報告書と各企業の社史をもとに目録を作成した。専門家にとっては宝の山だろうが、素人にとっては無味乾燥なデータの集積なので途中で読むのを放棄した。ただ日本企業が厖大な資産と当時の先端技術を朝鮮半島に残してきたことは十分わかった。

 後編はそうした資産がどのように北朝鮮の手にわたり、朝鮮戦争の開戦準備にどう使われたかを考察している。未整理でデータをそのまま放りだしているような部分も多いが、それでも学術書とは思えない迫力で久々に興奮した。

 従来朝鮮戦争にはソ連の提供した兵器と軍需物資が使われたとされてきた。ソ連の供給はもちろん大きく、1949年3月に金日成スターリンが締結した秘密軍事協定により空軍機192機、戦車173両、迫撃砲1300門などを保有するにいたり装備を飛躍的に強化したが、本書によるとソ連軍が撤退時に置いていった兵器もふくめてそれらはすべて有償だった。兵器供与は援助ではなく、ビジネスだったのだ。ソ連はドイツとの戦争で受けた損害から立ち直れておらず、アメリカと違って深刻な物資不足におちいっており、無償援助どころではなかった。

 秘密軍事協定に先立って1949年2月3日に金日成・朴憲永(副首相兼外相)から平壌駐箚ソ連大使に宛てた書簡に次のようにある。

 朝鮮政府はソ連から兵器、自動車、諸種の部品を得たい。その代価として鉄、非鉄金属と化学製品を供給する。また、工業再建と人民軍の装備のために3000万ドルの借款を要請する。その返済を1951年から3年間で行なう用意がある。

 金日成スターリンが要求した武器の代価を飢餓輸出による米と日本企業の設備で生産された金、銀、鉄鋼、レアアース、ウラン鉱石、セメント、肥料等々で支払った。朝鮮戦争までに北朝鮮が日本の残した軍需工場で弾薬を自給できる体制をつくりあげていたことは知られていたが、戦争準備には平和産業も動員されていたのである。

 もっとも生産の再開には時間がかかった。朝鮮半島の生産設備はソ連参戦から敗戦までの一週間にソ連軍の爆撃や艦砲射撃を受けていたし、敗戦後の混乱の中で多くの施設が損傷をこうむっっていたからだ。

 独立後の北朝鮮政府は日本軍・日本人が逃亡の際に産業設備を破壊したと宣伝したが、ソ連軍の報告書によるとそうした例は稀である。

 ほぼすべての鉱山で坑道が浸水したのは電力や燃料の不足のためだし、溶鉱炉と平炉が使用不能になったのは突然の稼働停止で炉が冷却したためだ。北朝鮮地域で徴用されていた朝鮮人労務者は大部分が韓国地域の出身なので、日本の敗戦が伝わるとただちに帰郷をはじめ、設備のメンテナンスができなくなったことも損壊の原因となった。

 一部で軍が日本企業に設備の破壊を命じた例があるが、民間の日本人はむしろ工場を守ろうという姿勢を示し、命令を拒否したり操業を朝鮮人にまかせて設備の維持をはかった。自分たちが苦労して作り上げた施設を破壊するに忍びなかったのと後で罪にとわれることを恐れたためだろう。日本人による意図的な破壊といえるのはラジオ局や電信電話局、変電所くらいのようである。

 世界最大級の発電量を誇った水豊発電所の発電機と変圧器を解体して持ち去ったようにソ連軍による設備の略奪も一部であった。ソ連軍が組織的におこなったのはむしろ物資の略奪・徴発の方だった。1946年6月までにソ連軍は日本企業が生産貯蔵していた鉱工業製品8000トンあまりを「戦利品」としてウラジオストックに搬出している。

 ソ連軍司令部は軍政をはじめるにあたって朝鮮人を日本企業の工場の幹部にして操業を再開させた。当初ソ連は日本人幹部と技術者の立ち入りを禁じたが、技術者は不足しており、急遽呼び寄せられたソ連人技術者には知識不足(ソ連にはない最新の機械が使われていた)と日本語という壁があったので、日本人技術者を積極的に復帰させる方針に転換した。ソ連軍司令部は日本人技術者の登録を命じ1946年1月時点で平壌における登録者は2158名におよんだ。日本人技術者は日本帝国が朝鮮半島に残したもう一つの遺産だった。

 技術者はそれ以外の日本人よりは優遇されたが、優遇とはいってもどうにか食べていける程度だった。

 この状況の中で日本人技術者は、熱意をもって仕事に取組んだ。それは、従来の職場への愛着と事故の技術にたいする誇りがあったからである。また、新国家の建設に取組む周囲の朝鮮人への共感もあった。日本人技術者は1946年から1947年前半にかけて、もっとも活発に活動した。……中略……なかでも、多かったのは旧日窒興南工場と旧日本高周波城津工場で、それぞれ275人、101人であった。これ以外にも各地の中小工場で、おそらく相当数の日本人技術者が残留した。たとえば朝鮮塩化工業鎮南浦工場では、工場を接収した後、日本人の元工場長が1946年9月まで生産を指導した。建築部門では、平南・安州郡で日本人技術者が水利工事の指導にあたった。これは、戦時中に進行していた大規模な工事の延長であった。

 日本人技術者は工場の再建にあたっただけでなく朝鮮人技術者の教育や技術移転に従事した。

 1946年9月までに1034の主要事業所のうち80%が操業を再開したが、生産量の回復は部門によってばらつきがあった。綿布の生産は原料の綿花が自給できたので戦中より増加したくらいだが、重化学工業は原油やコークス炭が不足していたので稼働率が上がらなかった。

 1946年9月にソ連占領地域からの正式な日本人引揚げが合意されたが、技術者の多くは出国が許されなかった。非公式なルートで38度線を超える者も出たが、

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