書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『韓国が漢字を復活できない理由』 豊田有恒 (祥伝社新書)

韓国が漢字を復活できない理由

→紀伊國屋書店で購入

 親韓派による韓国の漢字廃止批判である。

 豊田有恒氏は『宇宙戦艦ヤマト』の設定者として有名だが、ヤマトタケルを主人公にしたヒロイック・ファンタジーを手がけたあたりから日本の古代史や朝鮮半島の歴史に関心を広げ、そちらの方面の著作が多くなった。軍事政権という暗いイメージしかなかった1970年代から韓国を50回以上も訪れ、学ぶ人がまだあまりいなかった韓国語をマスターして交友関係を広げてきたという。昨今の韓流ファンとは年季のはいり方が違うのだ。

 豊田氏は朝鮮半島の人々と文化を敬愛するがゆえに韓国の漢字廃止政策を大変な損失と嘆き、年々過激化していくハングル至上主義に警鐘を鳴らしている。

 漢字廃止が文化の継承を危うくし人々の思考を浅くしているという批判は呉善花氏の『漢字廃止で韓国に何が起きたか』でもみられたが、呉氏の批判の要諦は漢字を使わないと同音異義語が判別できなくなることと、関連語の網の目が途切れてしまうという二点にあった。語は単独で意味をもつのではなく他の語との関係性においてはじめて意味をもつから、関連語の網の目が拡がらなければ意味も浅くなる。

 呉氏の漢字廃止批判は日本の漢字廃止論にもそのまま当てはまる一般論だったが、豊田氏はさらに一歩踏みこみ、韓国の漢字廃止論=ハングル至上主義の特殊事情というか根っこにあるものを明るみに出す。

 韓国語では一般的な語彙の70%は漢語由来で、専門的な文書では90%以上になるというが、豊田氏によるとその大半は和製漢語であり(韓国の漢字熟語の7割から8割という数字を上げているが根拠は示されていない)、韓国の漢字廃止政策とはすなわち日本隠し政策なのだという。

 明治の日本は欧米の概念をとりいれるためにおびただしい和製漢語を作りだした。「哲学」も「経済」も「民主主義」も全部和製漢語であり、明治の先人が和製漢語に翻訳してくれたおかげで日本人は欧米の学問を日本語で学ぶことができる。当たり前すぎて気がついていないが、自国語で高度な学問ができるというのは少数の国にだけ許された幸運なことなのだ。漢字が社会的格差を広げたと言っている人がいるが、事実は漢字のおかげで一握りのエリート以外にも知識を身につける道が開けたのである。

 日本に留学した中国人は和製漢語をほぼそのまま持ち帰って中国語の一部とした。「人民」も「共和国」も「共産主義」も全部和製漢語であり、「労働」の「働」にいたっては日本で作られた国字である。

 中国では和製漢語をとりいれたことは隠していないが、韓国ではタブーになっているのだという。

 なぜそんな違いが生まれたのだろうか。

 中国がとりいれた和製漢語は概念語中心であり「三権分立」のような中国語として不自然な語は「三権鼎立」のように改めた上でとりこんでいる。中国の和製漢語受容は主体的におこなわれたといっていい。

 ところが朝鮮半島は日本と合邦したために概念語のみならず「手続スソク」、「売出メーチュル」、「貸切テージョル」といった生活語彙まで日本語がなだれこみ、韓国語は後戻り不可能なまでに「言語的文化変容」をこうむってしまった。近代生活は和製漢語なしでは立ちゆかないのだ。

 漢字を使うと日本語からの借用が一目瞭然となるのでハングル専用にこだわっているというのが著者の見立てである。ちなみに韓国の国語審議会の国語純化分科委員会は漢語を韓国語固有の表現に言い換えるリストをたびたび発表しているが、そのリストは「日本語風生活用語純化イルボノトウセンファルヨンゴスンファチブ」というのだそうである(リストの名称をまず固有語に言い換えるべきだが、そうなると通じなくなってしまうのだろう)。

 独立後の韓国ではハングル専用一辺倒になったがそれにも日本隠しがからんでいる。併合時代朝鮮総督府はハングルの普及を進めたが、学校で教えたのはハングル専用ではなく、漢字仮名交じり文のように漢字とハングルを併用する漢字ハングル交じり文だった。それが仇となって漢字ハングル交じり文は日帝の残滓として排撃され、反対にハングル専用主義がナショナリズムのシンボルとなった。朴正煕時代に断行された漢字廃止でも漢字ハングル交じり文は槍玉にあげられたとのことである。

 著者によれば朴大統領が漢字廃止に踏みきったのは日韓基本条約に対する反発をかわすためだった。朴大統領は日本の士官学校を卒業していたのでもともと日本寄りと見なされがちだったが、そこに国民の反対の多い日韓基本条約門外が持ちあがったので漢字をスケープゴートにして反日パフォーマンスをやらざるをえなかったというわけである。

 もっとも漢字廃止宣言はわずか4年で骨抜きになり、朴大統領の片腕だった李在田参謀総長が会長となって韓国漢字教育推進総連合が結成され、軍隊で漢字教育が復活した。朴大統領自身は本心から漢字を廃止しようとしていたわけではないという見方には一理あるだろう。

 しかしハングル派はすぐに盛り返し、より強力に漢字廃止が遂行されていった。窮地に陥った漢字派は奇手に打ってでた。漢字は朝鮮人が発明したという漢字韓国起源説を言いだしたのだ。あからさまなナショナリズムへの迎合だが、おかげで2009年に漢字教育の義務化が実現したそうである。

 漢字韓国起源説は冗談のたねになっているが、実はこういう事情があったのである。

→紀伊國屋書店で購入