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『織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代』 武田知弘 (ソフトバンク新書)

織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代

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 武田知弘氏は国税庁職員から物書きに転じた人で、『ヒトラーの経済政策』や『史上最大の経済改革“明治維新”』などの経済的視点の歴史物で知られている。

 本書も信長の天下統一を経済的視点から見直そうという試みであり、経済力において信長が他の戦国大名を圧倒していたことがさまざまに論証されている。

 信長の天下統一が経済力を背景にしていたことは、織田軍が非常に金のかかる軍隊だったことからもわかる。

 信長は長篠の戦いで三千丁の鉄砲を投入するなど火器を活用したが、鉄砲は高価であり、火薬に必要な硝石は当時は輸入でしか入手できなかった。

 他の戦国大名は依然として農民兵に頼っていたので動員に時間がかかる上に、農閑期にしか戦えなかったが、信長はいちはやく兵農分離を進め、常備兵をかかえていた。戦争専門の常備兵が農民兵より強いのはあたり前だが、衣食住を丸がかえにしなければならなず、農民兵よりも格段に高くついた。織田軍を維持していくには恐ろしく金がかかったのである。

 では信長は厖大な軍事費をどのようにまかなったか。

 信長は足利義昭を将軍に推戴した際、義昭から望みは何かと聞かれて、官位でも領地でもなく、堺・大津・草津に代官をおく許可をもとめた。

 堺は海外貿易の拠点であると同時に日本最大の工業都市だったが、大津と草津も重要な交易拠点だった。明治まで日本の流通は波の荒い太平洋側よりも、内海である日本海側の航路を幹線としていたが、大津と草津は京都から琵琶湖を通って日本海側に出るルートに位置していたのである。

 港の重視は信長の祖父の信定にはじまる。信長の生まれた織田弾正忠家は清洲織田氏の三人いる家老の一人にすぎなかったが、祖父の信定は尾張の玄関口で伊勢湾交易の拠点である津島港の近くに勝幡城を築き、物流をおさえることによって莫大な収益をえた。

 信長の父の信秀は朝廷と幕府に多額の献金をして、尾張守護斯波氏の陪臣の陪臣の身ながら従五位下に叙せられ、将軍義輝に拝謁する栄に浴している。天文10年の伊勢神宮遷宮のおりにも破格の献金をおこない、三河守に任じられた。尾張の小領主にすぎなかった信秀がこれほどの金を献ずることができたのは津島港という金のなる木をもっていたからだ。織田弾正忠家は信長の祖父の代から経済に敏感だったのである。

 経済利権を握ろうとする信長の前に立ちはだかった勢力がいる。大寺院である。大寺院は戦国大名をしのぐ巨大な経済力をもっていた。

 永正5年に細川高国が発した撰銭禁止令は大山崎細川高国、堺、大内義興、山門使節、青蓮院、興福寺比叡山三塔の八者を対象としていたが、その内の五者までが寺院であり、しかも興福寺以外はすべて叡山関連である。

 叡山の荘園は判明しているだけで285ヶ所を数え、京の中心部に3ヘクタールもの土地を所有していた。

 また土倉というサラ金のような金融業者はいずれも大寺院とつながっており、金を返さない者には罰が当たると脅しつけ、それでも返さないと僧兵が取立てに押しかけた。

 叡山は馬借という運輸業者も支配下におき、琵琶湖に11ヶ所の関所を設けて通行税を徴収していた。

 兵庫湊では東大寺が北関、興福寺が南関という税関を設置して津料をとりたてていた。紀州根来寺戦国大名に先んじて石垣積みの寺城館を建てており、境内には300もの子院が立ち並び、堺・国友と並ぶ鉄砲の一大産地となっていた。

 新興の本願寺の経済力もすさまじい。本願寺系の大寺院は河口や街道の合流点など交通の要衝につくられており、寺域に寺内町という商工業地区を設けていた。寺内町楽市楽座を先取りした特権を戦国大名に認めさせて繁栄を誇り、本願寺の経済的基盤となっていた。

 著者は信長が仏教勢力と衝突したのは、大寺院が握る経済利権を奪いとろうとしたからだとしている。叡山や本願寺との戦いは実は経済戦争だったというわけである。

 著者は信長を経済革命の旗手として描きだしているが、信長は中世を離脱できなかったとする谷口克広氏の『信長の政略』を読んだ後では、盛りすぎではないかと思う箇所がすくなからずある。

 しかし信長が大寺院の既得権を奪おうとしていたとする見方は十分説得力があるし、堺・大津・草津の支配が東国の大名に対する経済封鎖を可能にしたという説も興味深い。経済封鎖にあたる荷留は他の大名もおこなっていたし、武田氏が鉄や硝石が入手できずに困っていたという記録もあるそうである。

 本書の中で一番面白かったのは、金・銀を貨幣にしたのは信長だという指摘である(この部分は浦長瀬隆中近世日本貨幣流通史』に拠っているよし)。

 中世において貨幣とは中国の銅銭だった。南宋滅亡後、元は紙幣の使用を強制したので大量の銅銭が日本に流入し、貨幣経済を促進した。ところが明が銅銭の輸出を禁止したために銅銭不足におちいり、粗悪な私鋳銭(偽コイン)が横行するようになった。長く使って摩り減った銅銭や私鋳銭を拒否する者が多く、取引を円滑化するために為政者はたびたび撰銭禁止令を出さなければならなくなっていた。それでも貨幣不足はいかんともしがたく、米が代用貨幣として使われるようにさへなった。

 銅銭が足りなければ金貨や銀貨を使えばいいと思うかもしれないが、東洋では金・銀は貴重品ではあったが貨幣ではなかった。

 武田信玄は領内で産した金で甲州金を鋳造したが、贈答品として使われただけで貨幣として流通した記録は武田領内でさえ残っていないそうである。

 金・銀を貨幣として認めた法令は本書によると上洛の翌年の永禄12年(1569)に信長が出した撰銭禁止令だという。

  • 今後、米を通貨として使ってはならない
  • 糸、薬10斤以上、箪笥10棹以上、茶碗100個以上の高額取引には金銀を使うこと
  • 中国からの輸入品などの取引にも金銀を使うこと
  • 金銀がない場合は、良質の銅銭を使うこと
  • 金10両に対して銅銭15貫文で交換すること
  • 銀10両に対して銅銭20貫文で交換すること

 信長の政治的威信によってはじめて金・銀が貨幣として使われるようになったというわけである。

 著者はさらに信長の名物狩りも金・銀の流通を促進させる狙いがあったとしている。確かに高価な茶道具の代金を金・銀で支払えば、それだけ市中に金・銀が出まわるようになるだろう。

 はたして信長がマネー革命を起こしたのかどうか、大いに気になるところである。

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