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『カノン』中原清一郎(河出書房新社)

カノン

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「「こころ」はどこにあるのか」

 『カノン』、美しい響きだ。主人公である北斗=歌音の名前だが、やはり音楽の一形式である「カノン」を思い出してしまう。ある旋律を追唱していく一種の輪唱で、異なる音で始まるものもある。とここまで書き始めて、パリ市内で行われた小さなコンサートに行くと、何と第一曲目が「パッヘルベルのカノン」だった。不思議なことがあるものだ。「共時性」とでも言ったら良いのか。

 末期癌の寒河江北斗は58歳の男性。記憶を失っていき、死に至るジンガメル症候群の氷坂カノンは32歳の女性。この二人の脳間海馬移植が発端となる近未来小説である。とはいえこの作品はSFの類いでは無い。人の「こころ」と「からだ」とは一体どのようなつながりがあるのか。「こころ」は脳にあるのかそれとも体全体と関係しているのか。ある「からだ」に別の「こころ」が移植された場合、折り合いはつくのか。このような問題が顕現する。

 

 カノンは息子の達也のために移植手術を希望する。成功するとカノンの意識は末期癌の北斗の体に入り、カノンの体には北斗の意識、つまり58歳の男性が入り込むことになる。カノンは自分の体を息子に残してやれる。だが、彼女の「こころ」は消えるはずだ。それは息子にとって、また夫の拓郎にとって良い事なのか。北斗は手術の後はカノンとして暮らすことになるから、今までの家族や友人とは会うことはできない。カノンの家族や友人、仕事等をそのまま受け継ぐことになる。

 

 一見荒唐無稽の話のように見えるが、果たしてそうだろうか。ヒトゲノムの解読は既に行われ、クローンに関する話題も豊富だ。世間を賑わしているSTAP細胞を含め、現実は我々の想像を遙かに超えたスピードで進んでいるのではないのか。人のクローン実験は禁じられているはずだが、本当に誰もやっていないと自信を持って言える人はいるのだろうか。カズオ・イシグロが『私を離さないで』で描いた恐ろしい世界は、すぐそこに見えている気がする。

  

 手術は成功し、北斗はカノンになり「奇妙なリハビリ」が始まる。心身共にカノンになるための訓練だ。その後家庭と職場へ戻り、様々な軋轢や葛藤が生まれる。達也との関係、拓郎との関係、職場の同僚達との関係。58歳の北斗が32歳のカノンに「成りすます」事は簡単ではない。だが、北斗=カノンは一つ一つ壁を乗り越えていく。最大の危機の時には、何と「カノン」が現れて助けてくれる。「こころ」とは何であるかについての問題提起である。

 

 カノンは多くの人の助け(特に脳間移植コーディネーターの黒沢の果たす役割は大きく、彼の真の姿も説得力がある)を得て「カノン」になる。それは手術前の氷坂カノンでもなく、寒河江北斗でもなく、二人のミックスでもない。新たな「カノン」なのだ。

 

 これは単なる再生の物語ではない。物理的な「ひと」の姿が明らかになればなるほど、精神的な「ひと」の姿は曖昧になってくる。私たちはそういう時代に生きているのではないのか。「こころ」を持つ「ひと」の姿を見失ってからでは、取り返しがつかない。だからこそ、今私たちは「こころ」について考え、「ひと」の原点に戻るべきであることを、中原清一郎(外岡秀俊)は『カノン』を通じて問いかけているようだ。


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