『架空の球を追う』森絵都(文春文庫)
―児童文学作家の成長グラフ―
わたしの世間は狭い。お世辞にも社交的とは言えず、ラジオこそ聴くものの、テレビに至っては滅多に見ない。けれども、気紛れにリモコンを作動することはあって、なぜか「NHKのど自慢」に出逢う頻度が高い。すると、例外なく、すっかり見惚れている自分に気づく。そして、森絵都の作品を読むと、どうしてか「NHKのど自慢」が連想される。
森絵都は児童文学作家としての受賞を重ね、おとなの読者を射程に入れた作品を執筆し始め、ついには直木賞を得るという成長グラフを示している。この右肩上がりの成長線を一貫して支えているものは、巧みに配される起承転結の構成力もさることながら、読者の身の丈に合う視点と描写、つまりは豊かな現実感である。もっとも、こどもからおとなへと読者層が移るにつれて、この現実への取り組みには変化が現れる。
児童文学作品の登場人物たちは、ピンチに瀕しても、挽回する。彼らのSOSは空振りに終わらない。希望が損なわれない。人間や社会への不信を補って余りある友情や思い遣りを、彼らが育みまたは回復するからである。彼女の作品が他ならない若年層に広く読まれたのは、そうした希望に勇気づけられることもあるだろうが、こどもたちの厳しい鑑識眼に適う感性を備えていたことが大きな理由であるに違いない。作家自身の回想に基づいて描いたのではない、実物大のこどもたちへの視線と情報収集が、森絵都の児童文学を成功させた秘訣だろうと思う。
『いつかパラソルの下で』(2005)では、こども時代から持ち越された歪(いびつ)さが修復されていく過程が描かれている。登場人物のみならず作家自身にとっても、過渡期の作品かと思う。友情に代わって修復を可能とするのは、支え合う兄弟や善意の人々との交流となる。「あり得ない」と鼻白むはずのハッピーエンドすら、「あり得る」細部の現実味と鮮やかな構成に丸め込まれて、受け入れてしまう。
それが、『風に舞い上がるビニールシート』(2006)を経て『架空の球を追う』(2009)ともなると、人生の応援歌ばかりではない苦さが見え隠れし始める。収められた11の短編のオチは、大団円ばかりとは限らなくなる。ルポルタージュ風の題材もあってか、書き手の視点が退き、原寸大の人生からの距離が生まれてくる。それでも、会話や描写の端々に窺える具体描写が冴えを見せて、離れた距離が近くなり、森絵都秘訣の身の丈が保たれる。象徴ではない具現の持つ説得力だ。
たとえば、表題作の「架空の球を追う」では、こどもたちの野球練習を見守る母親たちの「あり得そう」な井戸端会議が続く。軽佻浮薄な台詞の数々が、こどもたちとコーチの繰り広げるドタバタ劇に挿入されて、軽妙なスケッチ・コントの態をなす。ところが、ひとりの母親がセンチメンタルともいえる台詞を放った途端、「…と突然、影と影とが重なりあうように、彼女たちの心と私のそれとが同化した」、と正に突然「私」が現れる。それまで鳥瞰・傍観していた作家の視点がいきなり「私」となって彼女たちに重なるのだ。しかも、「少年たちがにわかに輝きを増して、なぜだかひどく貴重で得難い光景を前にしている思いがして」、「私はシャッターのように瞼をゆっくり降ろしては、また開く」。
少年たちの未来を望む現在が、未来から回顧されるはずの現在といった時間軸へと、最後の数行で逆転する。ノスタルジアを先取りする視点が、こどもたちの瞬間という現在を記録する。現在進行形を旨とする児童文学の構成から、過去や未来が織り込まれた時間を鳥瞰する構成への推移である。現実は複層を成していく。
リアリティ・ショー「のど自慢」では、キンコンカンコンの多寡に依らず、皆が最後には拍手をして幕を閉じる。僻(ひが)みも妬(ねた)みもこの世に存在しないかのような幻想的至福のひと時である。森絵都の作品にあった「のど自慢」的至福は、現実との距離や時間軸の操作とともに変容しつつある。最新作『この女』は未読だが、森絵都の今後の成長グラフを現在進行形で楽しめるのは、同時代の読者の特典にほかならない。