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『大江健三郎 作家自身を語る』大江健三郎 聞き手・構成 尾崎真理子(新潮社)

大江健三郎 作家自身を語る

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「作家自身による作品誕生譚」

 「作家」という名の人はいない。だが「作家」というカテゴリーに属する人達がいるのは確かなようだ。一体どのような人を「作家」と言うのだろうか。辞書の定義では「詩歌・小説・絵画など、芸術品の制作者。特に、小説家。」となっている。では何か一つでもこれらのものを制作したら、その人は「作家」になったのだろうか。また、一旦「作家」になった人は永遠に「作家」なのだろうか。それとも何年間か制作しなかったら「作家」ではなくなるのだろうか。どうも「作家」というのは結構曖昧な存在に見えてくる。

 ともあれ大江健三郎を「作家」と呼ぶ事に異を唱える人は少ないだろう。50年以上に渡って小説を書き続けていて、ノーベル文学賞を受賞しているのだから、これほど「作家」という称号に相応しい存在は無い。また、彼には光君という障害を持った長男がいて、それが彼の文学に大きな影響と動機とを与えているのを、知っている人も多い事だろう。だが、一見私小説のニュアンスがあるように見える作品群の主人公たち、鳥(バード)や長江古義人たちと作家本人との関係は明確ではない。読者にとってはその辺りは非常に気になるところだ。

 『大江健三郎 作家自身を語る』は、そういった読者の興味や好奇心を十二分に満足させてくれる一冊となっている。多くの批判を浴びながらも『個人的な体験』のエピローグが何故必要だったか、古義人と大江との関係はどういうものなのかを、作家自身の言葉で実に明快に説明してある。当然かもしれないが、例え登場人物にモデルがあっても、彼らはモデルと同一人物ではない。ではどこからが「フィクション」なのか。その距離感についても、興味深い発言がある。

 『洪水はわが魂に及び』は連合赤軍事件、『燃え上がる緑の木』はオウム真理教事件を、まるで予言したような作品となっている。それについて大江は、一つの事を10年間毎日考え続けていると、その「勢い」で自分が現在より「前に出て行く」事があると述べている。それが想像力であり、それを書く事によって、作品内容が近未来と一致してしまうということがありえると説明する。この本は5年前のインタヴューが元になっているが、大江はこうも発言している。「私がいま、最も恐怖を持って想像するのは、世界各地の原子力発電所が、あらゆる側面で次第に劣化して、事故を連続して起し始めること」これはテロに関する発言だが、日本の現状を考えると、彼の危惧はかなり正鵠を射ている。

 作品が生まれる時に関しては「もし作家に、他の人間とは違う才能があるとすると、それは実につまらない偶発事から、自分がその時書こうとしている小説の、一番根本的なものを創り出す、そのきっかけを感じ取る能力だと思いますよ。」と言う。また小説を書き進めていくと、「小説自体の力で、それまでの平面から離陸する瞬間がある」らしい。それを大江は「アレが来る」と呼ぶ。

 大江健三郎の作品は(特に後期の)常に人口に膾炙するものとは言えないかもしれない。しかし、作品によって常に私たちを種々に挑発する作家であるとは言えるだろう。そしてその議論の中に、私たちがこれから進むべき道の一端が示されているのは間違いないようだ。そんな作家の自然体の告白は、大江文学のフアンならずとも、非常に興味深く、また示唆に富んでいると言える。


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