書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『オットー・クレンペラー あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生』エーファ・ヴァイスヴァイラー(みすず書房)

オットー・クレンペラー あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生

→紀伊國屋ウェブストアで購入

「現代音楽から古典音楽の大家へ―クレンペラー没後40年」

 今年はドイツの名指揮者オットー・クレンペラー(1885-1973)の没後40年の年でもある。クレンペラーといえば、私がクラシック音楽を聴き始めた頃は、ベートーヴェンブラームスヴァーグナーブルックナーマーラーなど、ドイツ=オーストリア系の音楽の大家のように扱われていたが、若い頃は、現代音楽を積極的に取り上げる指揮者として名声を博していた。彼の伝記としては、ピーター・ヘイワースの二巻からなる名著(『オットー・クレンペラー:その生涯と時代』第一巻1983年、第二巻1996年)があるが、本書(エーファ・ヴァイスヴァイラー『オットー・クレンペラー』明石政紀訳、みすず書房、2011年)は、つねにヘイワースを意識しながら、それとは違う視点を打ち出すことに努力を傾注した作品に仕上がっている。意外にも、本書がドイツで出版された初めてのクレンペラー伝だという。

 当時ドイツ領のブレスラウ(現ポーランドヴロツワフ)に生まれたクレンペラーは、少年時代をハンブルクで過ごし、正式な音楽教育はフランクフルトのホーホ音楽院やベルリンのクリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院で学んだが、専攻科目はピアノと作曲だった。20世紀の大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーと同じく、最初は作曲家を目指していたのである。もちろん、作品も残されているが、残念ながら、今日その演奏に触れる機会は少ない(注1)。だが、モスクワ生まれのドイツの作曲家で指揮者としても活躍していたハンス・プフィッツナー(1869-1949)の指導を二年間受けたことによって、クレンペラーもようやく将来の道を見つけたようだ。プフィッツナーは後にナチズムに接近したことで評判を落としたが、師弟の関係は、ときに険悪になりながらも最後まで続いたという。

 クレンペラーは、どんな立場のひとでも、学ぶべきところがあればみずから進んで近づいていくという、大胆とも向こう見ずともいえる性格だったのだろう。師のプフィッツナーと後に対立することになる作曲家フェルッチョ・ブゾーニのところにも通い、当時の前衛音楽(セザール・フランクガブリエル・フォーレバルトーク・ベーラなど)を教わった。ブゾーニはみずから主催していた「新作演奏会」で取り上げる作品のなかにドイツ音楽が少なすぎると音楽評論家に批判されていたらしいが、若いクレンペラーに次のように語ったという。「音楽評論家など『浜辺の波のようなもので、それは人を押し倒すこともできるが、ひとたび波が砕けてしまえば、人はまた立ちあがれる』」と(同書、31ページ)。

 とくに指揮に関していえば、クレンペラーは師よりもアルトゥア・ニキシュ(フルトヴェングラーの前のベルリン・フィルの首席指揮者)から多くを学んだという。彼は「教える」ことには長けていなかったが、クレンペラーは、ステージで「催眠術的な威力」を発揮するニキシュの姿に圧倒された。「彼の動きは、控えめで、落ち着いていて、抑制がきき、細く軽やかな指揮棒は、指の有機的な延長のように見え、この指揮棒が揺れ、それがオーケストラを喋らせるかのように思えた。彼の指示を逃れることは不可能だった。スタッカートはスタッカート、レガートはレガートなのだ。抗弁も逃亡もできなかった。彼の手が目の高さより上がることは稀で、この目が一緒に指揮をし、オーケストラを操った」と(同書、32ページ)。

 だが、どうしたら指揮者としてのキャリアをスタートできるのだろうか。チャンスは遠からずやってきた。1905年11月、ベルリンでグスタフ・マーラーの第二交響曲の演奏会があったが、指揮者のオスカー・フリートが自分の助手で練習伴奏者になりたてのクレンペラーを舞台裏での「遠方楽団」の指揮を任せてくれたのである。マーラーの第二交響曲は、終楽章「スケルツォのテンポで、荒々しく進み出るように」で遠方楽団(トランペット四本、ホルン四本、七つの打楽器から成る)を指揮するひとが必要なのだ。マーラー自身も練習に立ち会ったが、クレンペラーマーラーの指示のおかげでなんとかお褒めの言葉をかけられる仕事をすることができた。

 狂喜したクレンペラーは、マーラーの第二交響曲のピアノ連弾版までつくった。マーラーウィーン宮廷歌劇場の音楽監督にまで上り詰めた「雲の上」のひとだったが、クレンペラーは、なんとか彼の助手になれないものかと考えた。しかし、マーラーにはすでにブルーノ・ヴァルターという心から信頼する助手がいた。それでも、指揮者になる夢は諦めきれない。二年後、オランダのチェリストと演奏旅行に出かけたとき、マーラーに会うためにウィーンを何度か訪れた。クレンペラーマーラーの推薦状がほしかったのだ。マーラーは、クレンペラーがピアニストとして通用する腕をもっているのになぜ指揮者になりたいのか訝ったが、三度目の訪問のとき、ようやく名刺に推薦文を書いてくれた。この推薦状があったおかげで、クレンペラーは、プラハのドイツ劇場でのポスト(アンジェロ・ノイマンのもとで合唱指揮者兼楽長)を手に入れることができたのである。

 ドイツ劇場では懸命に働いたが、この頃から、クレンペラーを生涯にわたって悩ます「双極性障害」(躁鬱病)の症状がみられたようである。ノイマンとの関係も悪化し、ついには解雇されしまった。そんな彼を救ってくれたのも、またマーラーの推薦状だった。1910年1月、今度はハンブルクオペラ座から声がかかったのである。

 クレンペラーは、名指揮者が誰もが辿るように、ハンブルクのあともバルメン、シュトラースブルク、ケルン、ヴィースバーデンなどの歌劇場を渡り歩くことになるが、おそらく過労や人間関係のもつれから躁鬱がひどくなると、しばしばケーニヒシュタインのサナトリウムに逃げ込むようになった。このサナトリウムを創立した院長オスカー・コーンシュタムは、ジークムント・フロイトのような理論は持ち合わせていなかったが、「患者の話をじっくり聞き、患者に生きる勇気を与える」という、現代の行動療法と類似の手法で治療に当たっていたらしい(同書、66-67ページ参照)。しかし、この病気とたまに訪れる「奇怪な激昂期」は、彼の妻ヨハナや友人たちを巻き込んでひと騒動になることもあった。

 ところで、クレンペラーといえば、やはりベルリン・クロル・オペラの総監督時代の活躍に触れずにおくことはできないだろう。1927年のベルリンには、ウンター・デン・リンデンの州立歌劇場にエーリヒ・クライバー、ベルリン市立歌劇場にブルーノ・ヴァルター、ベルリン・フィルフルトヴェングラーという名指揮者が揃っていた。いまから思えば、黄金時代である。クレンペラーは、相変わらず、現代音楽に積極的に取り組み、「ストラヴィンスキーの<エディプス王>を指揮したころにはドイツ最高の現代音楽指揮者のひとりであるとの名声を獲得していた」という(同書、177ページ)。また、ワーグナーの<さまよえるオランダ人>を初稿版で上演し(1929年1月15日)、「ヴァーグナーに積もり積もっていた塵や垢を徹底的にぬぐい払おうとした」(同書、182ページ)が、この上演はヴァーグナーの孫フランツ・バイドラーには評価されたものの、ヴァーグナーの息子ジークフリートとその妻ヴィニフレートには受け容れられなかった。ジークフリートは、後にその演出を「文化ボルシェヴィズム」と呼んで蔑んでいたという(同書、182ページ参照)。

 だが、黄金時代はいつまでも続かない。やがてナチ党が躍進するにつれて、プロイセンの州政府は、1930年10月6日、クロル・オペラの閉鎖を決定した。クレンペラーユダヤ人であったことも、彼が取り上げる音楽が「前衛的」に過ぎて「ドイツ的」ではないことも大きく関係していただろう。クレンペラーの小さな子供たちは、なぜ父親が追放されるのかが理解できなかった。するとクレンペラーは一言だけ言葉を発したという。「わたしがユダヤ人だからだ」と(同書、191ページ)。

 その後、クレンペラーは数々の災難に見舞われる。スイスを経由してアメリカに渡り、ロサンジェルスフィルハーモニーの首席指揮者となったが、まもなく脳腫瘍ができていることが判明し、1939年9月18日、4時間半に及ぶ手術を受けた。術後意識が回復したときには、右目の括約筋と舌の右側が麻痺しており、右腕もやっと動かせる程度だった。数日後には髄膜炎も併発した。オーケストラからも解雇された。精神状態も悪化した。このような最悪の状態から立ち直るのは並大抵の努力では難しかっただろう。

 第二次世界大戦後、三年間、ブダペストオペラ座の首席指揮者をつとめたが、その後も火傷を負ったり転倒によって大腿骨を骨折したりと不運が重なった。

 しかし、1959年、フィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者となり、晩年の活動の場を得たのは幸いだった。私がクラシック音楽を聴き始めた頃に市場に出ていたのは、たいてい、フィルハーモニア管との晩年の録音、それもドイツ=オーストリア系の古典派からロマン派に至る音楽が中心だった。なぜ彼はあれほど以前は力を入れていた現代音楽を録音しなかったのだろうか。本書によれば、彼はブーレーズシュトックハウゼン、ときにヘンツェを好んで聴いていたらしいが、録音したのが古典音楽に偏ったのは「商業的理由」によるものだったという(同書、205ページ参照)。つまり、現代音楽は売れなかったのだ。しかも、クレンペラーも生計を立てるためにお金が必要だったので、レコード会社の意向を無視できなかった。ただ、そうはいっても、彼の指揮は、主観性を排し、泰然とした音楽の流れをつくりだすことによって最も優れたベートーヴェン全集のひとつに結実したように思われる。

 本書は、クレンペラーのプライベートな面についても多くのエピソードが紹介してある。他の偉大な音楽家についてもいえることなので、いちいち記さないが、本書は、多くの人間的欠陥をもちながらも、不屈の精神によって怪我や病気を克服し、偉大な指揮者と評価されるようになった経緯がわかるように丁寧に叙述してある。クレンペラー没後40年と知って本書を取り上げるゆえんである。

1 ヘイワースは、クレンペラーの作曲は「躁鬱病の錯綜」の産物だと軽く触れていただけだったが、本書は「作曲家クレンペラー」も再評価に値するという立場をとっている。ただし、今日、彼の作品を実際に聴いたひとはごく少数だと思われるので、どの程度の評価になるのかは正直わからない。

→紀伊國屋ウェブストアで購入