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『変身-カフカ・コレクション』 フランツ・カフカ[著] 池内紀[訳] (白水Uブックス)

変身―カフカ・コレクション (新書)

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カフカ、『変身』に見られる家族の自立」

夏休みといえば宿題、宿題といえば感想文だが、久しぶりに手に取った『変身』は多様な読み方ができる稀有な小説であった。


『変身』は、高校時代に読んだきりだから、内容も漠然としか覚えていなかったが、「目が覚めたら虫に変わっていた」とは、突然、理由もわからず発症していまうALS患者の境遇と酷似している。だから身近な神経難病者のストーリーとして、『変身』を読むこともできなくはない。しかし、それはやめておこう。ここには、家族の変容も描かれている。たとえば93ページ。介護してきた妹の堪忍袋の緒が切れてしまう。

「お父さん、お母さん」ザムザの妹が口をひらいた。ここからストーリーは急転直下の勢いで終局に転じていく。たたみかけるような会話。それまでおとなしく兄の運命を受け入れていたはずの妹が最初に口をひらいた。それを聞いたザムザは心臓に楔を打ち込まれたも同然だ。

「もうこのままはダメ。・・・わたしにはわかる。・・・このへんな生き物を兄さんなんて呼ばない。・・・もう縁切りにしなくちゃあ。人間としてできることはしてきた。面倒をみて我慢したわ。・・」

矢 継ぎ早に繰り出される妹の強い言葉に父親が同調する。人格否定は続く。「どうしてこれがグレーゴルかしら?」「もしこれがグレーゴルなら、人間とこんな動物がいっしょに住めないことに、とっくに気がついている。自分から出て行っている。」もし、グレーゴルが「自分たち家族に対して思いやり深くあるのなら、こんな結果にはならなかったはず」と言うのである。 

かわいがってきた妹から、関係性の断絶を宣言するかのように、わが身の現実を突きつけられて、むしろ解放されたのは、当のグレーゴルの人間性だったのかもしれない。

だから、彼はようやく自分の身を「ほとんど感じなく」なりはじめていた。ギブアップ寸前まで行った。本来なら虫に変身した時点で死んでいたも同然だったが、ここまでしぶとく生き延びた。この辺の感情は呼吸器を着けた後のALS患者の心情そのものである。

 虫の姿で生きることは家族にとって迷惑なことだし、そんなことはザムザもALS患者も百も承知だ。

しかし、それでもなお頑張りがきいたのは、妹や父母がいたからだった。だから、命を諦めかけてもなお家族のことを「懐かしみと愛情こめて思い返した」。そして、ほとんど本能のまま「消えうせてはならい」と最後まで念じたのだが、それも「意志とかかわりなく、がくりと落ち」、ごみ屑のようになって死ぬのである。黙って死にゆく最後の場面は圧巻だ。

この小説でもっとも不可解な点。それは、ザムザ本人が「なぜ虫になってしまったのだ」と自問したり苦しんだりしない点にある。そこを私は、ザムザが虫の身体を受け入れているからだろうと読んでみる。

カフカはザムザに発症の意味を問わせない。生きること自体が不可解なエゴだからだ。

家族もまた自我がぶつかり合う小さな社会だ。私たちはどんなに孤独になろうと、努力したとしても、自分以外の人が存在する社会に生きてしまう。その限りにおいて、自分の容貌や能力は自分で選び取れたり、自分で評価できるものではない。常に存在は社会の目、他人の批判にさらされてしまう。属性や生来の所与は個人の努力ではどうにもならないことなのだ。たとえば、出生時から「変身」している人だもいる。マイノリティ、ジェンダー、貧困、障害、疾病、出生による差別などは、個人の責任の範囲にないし、努力で変えようがない。だから、ザムザはなぜ「変身」したか、などと自問しない。問うこと自体が愚問だから。

カフカが虫になぜ?と問わせなかったように、私たちも有形無形の自己を黙って受け入れるしかない。自分から本人は逃げられない。コントロール不能な自分という存在の、コントロール不能な理由について、私たちは無頓着でしか生きていられないとも読める。

だから、虫として家族の生活を侵食する存在になってもなお、家族に寄生し思い通りにしようとするザムザに遠慮などないのである。それどころか夢見がちでさえある。

悪虫の姿のままで新しい生活への脱却を何度も展望している。言ってみれば、家族の養い手として家族を支配してきたザムザの影響力は、虫へ変態することで一掃リアルさが増している。ただ、私にとっては、冒頭で述べたように、ザムザの心情よりも、彼が虫になった時と虫として死んだ後の、家族の変化に興味がある。話を家族の視点に戻そう。

 もし、ザムザが反社会的な毒虫にならなかったとしたら、この家族はいったいどうなっていただろうと考えてみたい。ザムザ以外の家族の「変身」は、個の自立のためにも待たねばならないものであった。しかし、虫になる前のザムザが「人間」「兄」「息子」「一家の稼ぎ手」でいる限り、そのような変化は起こらなかっただろう。稼ぎ手がいなくなった家族は、労働と介護の義務を突然負うことになり、小間使いのような生活も送る。以前とは考えられないひどい暮らしだ。しかし、そのような経験が、虫からの自立を促したともいえる。

これが家族の物語りでもあることの証明に、虫が死んでも物語は終わらないばかりか進展する。これは彼の死によって終焉に向かう物語ではなかった。家族はザムザの死を悲しむどころか、長期介護や忍耐や義務から開放されて自信に満ち溢れた人に突如これも変貌し、間借り人を追い出し、手伝い女も今夜にはクビにしようと「自分たち」で決めるのである。小説の最後で家族は「決定できる主体」となる。そして、ザムザが死んだ当日だというのに、介護の疲労を癒すまでもなく、虫を葬るでもなく、三人揃って久しぶりに電車に乗って遠出するのだ。そこで親が別方向に目覚めるのは、娘の美しさである。

夫婦は、娘を嫁がせることで新たな家族の獲得というもくろみに目覚めていく。なんという変わり身、「変身」の速さだろう。

「変身」を「病い」に例える読みは安直と私も思うが、「変身」を当事者にとっての変身どころではない「所与」「属性」の問題として、あるいは家族にとっての「自立」の問題提起と読み替えて、社会や介護の問題を『変身』を通して考察してみた。


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