書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『図説 着物柄にみる戦争』乾淑子(インパクト出版会)

図説 着物柄にみる戦争

→紀伊國屋書店で購入

戦争柄の着物をつくり、着物柄に戦争をみる

骨董市に出かけて手ぶらで帰ってはつまらないから、収穫のないときには山積みされた葉書や端布まで戻っていって、ひっくり返してながめてみる。「赤い鳥」から飛び出たような男の子がまるまるとした飛行機や日の丸といっしょに染められた生地をみていたのも、そんな中でのことだろう。この本の著者・乾淑子さんは継ぎ接ぎの研究をとおして戦争柄の着物に出会い、以来骨董市やネットオークションで、高射砲、装甲車、列車砲、重爆撃機、戦闘機、戦艦、駆逐艦航空母艦、銃や軍刀サイドカー、ラッパ、馬、犬、鳩にうさぎ、地図、日の丸、旭日旗満州国旗、周囲を虫に食われたロシア国旗、東郷元帥、神功皇后、爆弾三勇士に桃太郎……などを描いた着物や布地を収集し、うち165点を、戦争柄として整理して解説を付した。この本は、昨年から各地で開かれている同タイトルの展示の図録でもある。

     ※

着物産業の最盛期は明治22、3年から昭和15年のおよそ50年間で、日清戦争が始まった明治27年から贅沢禁止令が出された昭和15年に重なる。文献などから、着物の戦争柄のはじまりは明治20年代後半の大阪で、男性の羽裏に錦絵風に描かれたものらしい。まずは大人用の襦袢や羽裏に粋な柄として登場し、大正期になってモスリンや木綿に子ども向けの柄が描かれるようになり、そのいっぽうで戦争柄の布団絣などは、吉祥柄のひとつとして嫁入り布団に仕立てられていたようだ。これらの戦争柄はプロパガンダであったのかどうなのか、著者は、否定はできないが、いわゆる「戦争画」の流れで着物の柄にまで言及した記述は確認できないので、「自由な経済原理に基づいて」生産消費されたものではないかと記す。

     ※

明治も30年代になると、いわゆるファッション業界が戦争柄の着物を派手にセールスしたようだ。たとえば三井呉服店の広報誌「時好」には、戦争柄で、江戸褄、縮緬襦袢地、帯、半襟、木綿浴衣地、手拭い、ハンカチ、ナプキン、財布、ネクタイ、ヘアピン、帯留などおよそ100点が並んだという。むろんそれが「戦争柄」と呼ばれていたはずはなかろうが、デリケートなテーマと最先端の図柄はファッションのアイコンとしては最適であったにちがいない。別冊太陽「骨董をたのしむ34 昔きものを楽しむ その2」には小塚和子さんのコレクションから面白着物ワールドとして数点掲載されていて、その中に子ども用の戦争柄の着物が2点あった。幽霊や蜘蛛、蝙蝠を染めたものや奇抜と紙一重の構図のものと並んで、たしかに戦争柄も当時の新しいアイテムであったようだ。

     ※

東京一の呉服店が図版を載せてまで売り出した戦争柄を、実際に購入して楽しんだ層はおのずと見えてくる。その華やぎに憧れた子どもたちがいたかもしれないし、愛しい子どもたちに大人たちは同じニューモードを誂えたいと考えたかもしれない。いっぽう多くの日本人が、大正・昭和にいたりさまざまな技術で廉価に反物が生産されるようになると同時にニューモードとしての戦争柄が翳りをみせてゆくなかで、どれだけ身につけていたかはみえてこない。著者はかつての少年たちに、戦争柄の着物を着ていたころの記憶を話して欲しいと呼びかけるが、反物メーカーや意匠を担当したつくり手側の記憶を伝え知るためのきっかけとなることも、刊行の大きな役割と感じる。

     ※

今に時代をうつしてみれば、迷彩柄も戦争柄だ。その柄の洋服や小物は性差のにおいが少ないデザインに思え私も愛用したことがあったし、母にとがめられたこともオトナにはわからないテーゼと好ましかった。屈託のなさはファッションの魅力のひとつで、なるほど今にいたってもみごと地続きのことである。衣装はひとの身体を媒体として「ひとの世」の要素となる。誰もの身体が空気醸成の小道具になる。戦争柄の着物をつくるも着物柄に戦争をみるも、なんてひとつながりの私たちであることだろう。


→紀伊國屋書店で購入