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『光と重力』今井智己(リトルモア)

光と重力

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「奇妙なほどモノが克明にみえる瞬間」

写真集にはおもしろいと感じて、そのおもしろさがすっと言葉になるときと、時間のかかるときとがある。今井智己のこの写真集がそうだった。感じとっているものはたくさんあるはずなのに、そうでなければこんなに何度も見ないのに、それが何なのかがつかめない。心の印画紙はたしかに感光しているのに像を結ばないのだ。

写真は言葉より先の世界を目指すものであるから、こういう反応が生まれるのは写真らしい写真と言える。言葉よりもずっと先を走っている。「写真度」が高い。それなら無理して言葉にせずに写真を見て満足していればいいかもしれないが、言葉人間である私はそれではだめなのだ。自分の反応の仕組みをなんとか探ってみたいともがく。

まず写っているもののことから話そう。最初は崖の岩肌。つぎは針葉樹の森。地面に少し雪が残っている。そのつぎは松林で地面に雑草が生えていて、前の写真より少し季節が暖かそうだ。ほかにも杉の樹皮と枝が写っているもの、新緑の梢を下から見上げたもの、潅木の蔓が複雑に絡まったもの、光が差し込んだ杉木立など、自然のなかで撮ったものが多い。

ところがそのあいまに突如、トンネルや街路やガラス窓やカーテンなどの写真が入ってくる。樹木が好きで開いた人はがくっとするかもしれない。それらが夾雑物にしか見えないければ反感すら抱くだろう。どうしてこうしたものが挿入されているのだろうか。写真集のテーマが自然でないことを言いたいがためだろうか。だとしたらこの写真集のテーマは何なのか。

ここに入っている写真を展示した彼の写真展を本日見てきた。そこでふっと思い出したことがあった。2週間前のすばらしくよく晴れた日曜に葉山に行ったのだが、そこではじめて見るような巨大な富士山を見た。海を隔てて眺めているにもかかわらず鬼気迫るものがあり、海を渡ってこちらに歩いてきそうな異様さを感じた。山のサイズが変わるはずがない。背景の空の色、光の具合、空気の透明度、山肌を覆う雪の状態などの条件が絡み合って異様な大きさに見せたのだろう。その日は沖合に浮かぶ大島も見えたが、これも巨大だった。

このように物の大きさやディテールは変化する。おなじものがまったくちがって見えてしまうことがある。変化には振幅があり、小さいときは気づかずに見すごしてしまうが、あの日の富士山のような変化はだれも見逃さない。そういうときは富士ばかりでなく、身の回りのものすべてがやけに克明に見えたりする。

話を写真集にもどすと、今井の写真にはこの日の富士山に共通するような異常なほどの克明さがある。枝の細部が、樹木の表皮が、地面に落ちた枯れ葉が、キリキリと音がするほどレンズを絞り込んでとらえられている。カメラは機械だから絞り込めばディテールが出る。だれがやってもそうなる。だからここで気になるのは、なぜ今井がそのように撮ったのかということだ。

ガラス窓の写真を見てみたい。表面に凹凸模様のあるすりガラスで、室内が暗くて外がぼんやりと明るいために、皮革製品の表面を思わせるガラスの模様がくっきりと浮き上がっている。非常に気になる克明さだ。物が見えすぎたときの不安と恍惚に襲われる。空気がキーンと音を立てているのが聞こえてくるような静謐感がある。

だんだんとわかってきた。この写真集に収められているのはすべて「物事が克明に見えてしまったとき」の写真なのである。克明に撮ろうとして計算して撮った克明さとはちがう。物事がそう「見えた」ときがあった。奇妙なほど細かく見える屹立した時空が、彼は気になる人なのだ。なにかを「見た」ことではなく、こう「見えた」ことの恩寵をこれらの写真は示している。

もうひとつ感じたのは写真展と写真集がもたらすものとのちがいである。写真集とはプリントしたものがもう一度プリント=印刷されて出来るものであり、「これらは写真である(=印刷物である)」というステートメントが強い。ところが写真展ではプリントがそのまま展示されるので、ディレールの克明さが際立ち、その分絵画に接近している印象を持った。ここで言う「絵画」とは見た人が「写真みたい!」と驚きの声を上げるような絵画のこと、かつでスーパーリアリズムと呼ばれたこともある絵画の種類である。

図版でしか見たことがないのだが、ずっと気になっている画家がいる。犬塚勉という画家で、自然に分け入って写真を撮り、それを絵筆で描いて緻密な絵画作品を残した。図版で見るかぎりは「写真のように」見える。図版は写真だからそれで当然なのだが、実際に作品を見たときにどう感じるか興味深い。絵筆で描写されたものと、レンズで写し取られたものとでは人の心身を喚起させるものが異なってくるだろうか。

蔓が絡み合った写真、杉の樹皮の写真、杉木立に光が差し込む写真など、今井の写真から感じ取る狂的なエネルギーは、克明な絵画を見たときに感じるものに近いようにも思える。写真と絵画の境界はどこにあるのかという問いがここでわき起こってくる。克明であればあるほどふたつは接近してくる。おそらく離れて見たらちがいは認識できないだろう。写真だと思って近づいたら人の手が描いているとわかったとき、その驚きは人の意識をどう変えるのだろうか。その逆にやっぱり写真だったと知ったとき、どんな感慨が生れるのだろうか。私にとって写真のおもしろさとは、こういう問いを運んできてくれることなのだ。

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