『西鶴の感情』富岡多惠子(講談社)
西鶴の別号「二万翁」は、貞享元年(1684)住吉大社で行われた「一昼夜二万三百五十句独吟」の興行に由来する。
西鶴が亡き妻の追善に一日千句を作り、それを『俳諧一日獨吟千句』として上梓したことが、寺社の境内などに観衆を集め、制限時間内に多くの句をつぎつぎと吟じてゆく「矢数俳諧」の発端だという。延宝五年(1677)に「一昼夜独吟千六百句」、さらには延宝八年(1680)に「一昼夜独吟四千句」の興行を現在の生玉魂神社で行い、その成果はそれぞれ『西鶴俳諧大句数』『西鶴大矢数』にまとめられた。
「矢数俳諧」の粗である西鶴にとってそれは、江戸初期以来支配的であった貞門派に対し、自らが中心となった「阿蘭陀流」(そもそもは保守派側が、この新興流派をけなしてつけた呼び名だった)の、つまり〝前衛〟の保守派へのデモンストレーションの意味も込められていたというが、その、数を競うゲームに火がつき、記録を破るべく各地に〝挑戦者〟が出現、一種の流行現象となる。江戸浅草で、椎本才麿によって一万余句が独吟されるにおよび、「一昼夜二万三百五十句独吟」という離れ業をやってのける西鶴であった。
富岡多惠子は、本書の二章(「そしらば誹れわんざくれ」)において、この〝独吟〟というスタイルが、西鶴の「それまでの俳諧師としての自覚の深部にあって、無自覚でさえあった言語的欲望」を実感させたのではないか、と書く。
西鶴が自らの興行を本として「商品化しているのは、商人的あざとさというより、俳諧師としての野心を感じさせる」が、それは「その世界での立場の上昇」に向けられただけではないのだと。「矢数俳諧」の興行をめぐっての、「世俗的関心が西鶴本人になかったわけではないだろうから、一から十までを言語的欲望による必然といえぬまでも、数字の増殖に、なにごとも、やってみんことにはわからん、という実験欲も感得したい。」とする。
……この時の一日千句が、次の『西鶴俳諧大句数』千六百句に、さらに、『西鶴大矢数』四千句となり、「数」に注目が集って、数字の増殖を、商都大阪、さらには大阪町人の社会的、生活的な勢いに重ね合わせ、その上そこに、西鶴というひとの大阪町人のハッタリ性、個人的性癖として目立ちたがりまでを勝手に想像するだけでは、彼の俳諧的モンダイ、萌芽しつつあるやもしれぬ作家的自我をとり逃がすことになってしまう。
また決められた時間のなかの速吟には「どこかにオートマティズム、というよりむしろ「憑依」に似た感覚に滑り込んでいた時なきにしもあらずという気もし、それがひきずりこむ一種の「酔い」に敏感であったであろうと勝手な想像がしたくなる」といい、そのあと、著者がかつて「或る詩人の千行あまりの長詩」を知り、それをこえたいと千五百行の詩を書いたときに、「書き続けているうちに「憑依」感覚のようなものを言語の生理として時に思いもかけず体感」したという体験談をつづける。
「一昼夜二万三百五十句独吟」については、西鶴が「矢数俳諧」の創始者として、この数のゲームを打ち止めるべくして行ったものだという。「言語的欲望」に動かされ、どれだけできるのかという「実験欲」もあり、そのただなかではある神懸かり的な恍惚も知っていたであろう西鶴だが、それがたんなる流行となったとき、もうこのへんでいいでしょう、こういうことは! とその興行に打って出たのだろう。
それは本としてまとめられることはなく、記録も残っていないが、先の二興行については、「その板行のたびごとに、序文、跋文などに自信と自負、さらに自慢さえ公言」する西鶴。ただし「その威勢のいい言辞は、それをそのまま受取っていいかという気もする。」と著者が書くのは、『好色一代男』にみられる数の羅列(「主人公が六十歳までにたわむれた女が三千七百四十二人、男が七百二十五人……」)、その「誇張が誘い出す「おかしみ」の片鱗に、作者の、冷たいまでの素知らぬ顔を感じる」からである。
やるとなれば、自らの定めたルールに異様に忠実であった西鶴だというが、興行がすんでしまえば、
……「是迄なりや万事を捨坊主」で「諸願成就」に感傷がない。こういうことは終ればそれでいいのだ、終わったあとまで、ああだこうだということはない――といわぬばかり。二万三千五百句だなどと、花火をあげるわりには本人はただマジメにやっているだけ。それを、のちにつくられた俳諧→俳句=芭蕉の観点から、文学的にどうのこうのというのは詮ないことのように思われる。
このように、後世の目から「文学」的な文脈で西鶴を眺めても仕方のないことだといいながら、著者は、自らとおなじ「書くこと」によって生きる者としての西鶴の、作家としての自我とその作品に込められた批評性に目をこらしてゆく。近世の大阪で、都市生活者として「文筆」を生業として生きた西鶴という人とその作品に、近代性をみいだしつつ、こんにちの私たちの感覚によってだけでは、容易に汲み取りきれないその像を、著者はたくみに現前させてゆく。「西鶴の感情」というが、それよりも著者の「西鶴への感情」、理解でも共感でもないものを、感情のことばに頼ることなく描きだすことで、著者は自らの文学的自我に試練を課しているかのようだ。