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『大塚女子アパートメント物語 オールドミスの館にようこそ』川口明子(教育資料出版会)

大塚女子アパートメント物語 オールドミスの館にようこそ

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 同潤会によって建設された女性専用アパート、大塚女子アパートメントの軌跡をつづる本書。


 その設立は1930年。地上五階、地下一階、中庭を抱いたコの字型の建物には148の居室があった。地下には食堂と共同浴場、一階には応接室とミシン室、五階には洗濯室と物干し場、屋上には音楽室とガラスばりの日光室、同潤会アパートのなかでも特に共有スペースが充実していた。また、水洗トイレ、エレベーター、ダスターシュート、ガス湯沸かし器等、当時の日本人の住居環境からすれば、夢のように快適な近代的設備を持つ、当時最新の女子向けコレクティブハウスともいうべきアパートである。入居の条件は「月収五十円以上」、当時の女性としてはかなりの高収入である。専門的な職種の、いわば「職業婦人」たちをあてこんで造られたのがこの大塚女子アパートであった。

 この「職業婦人」憧れの住まいは当時から人々に注目され、メディアにも華々しく紹介されたが、本書に取り上げられている記事をみると、そこには世間のよからぬ好奇の目が注がれていたとわかる。たとえば1931年の『婦人公論』には「モダン女護ヶ島――女独身アパート夜話」という、女性誌らしからぬタイトルで、職業婦人のアパート暮らしが揶揄されているという。

 主婦向けというよりは、新しい女性のための雑誌のはずの『婦人公論』にそんな記事があったというとがなにより驚きだが、それだけ大塚女子アパートのようなモダンな部屋に暮らす女性たちが特殊な存在だったということか。

 女性に限らずとも、単身者の住居は下宿か間借りがおおかった時代のこと、プライベートな空間を手に入れられる人は限られていた。それゆえなのだろう、大塚女子アパートには、「男子禁制」の厳密な規則があって、たとえ親兄弟といえども一階の応接室までしか入ることができなかったという。この問題については、創立当初から居住者と同潤会はもめていたらしい。ちなみに同じ時期に同潤会が建てた独身男性専用の虎ノ門アパートには、女子禁制の規則はなかったという。

 戦後、同潤会アパートは、同潤会に変わってアパートの管理を引き継いでいた住宅営団が解散したのち、いったんは東京都の管理下におかれ、住民へと払い下げられた。しかし、大塚女子アパートだけは、居住者の意見がわかれたためにそれが行われなかった。もしもアパートが分譲されることになれば、それまでの女性専用という規則は壊れ、どんな人間がアパートに入ってくるかわからない、という意見が反対派にはおおかったという。

 こうして大塚女子アパートは都営住宅として存続することになり、高収入のモダンガールのお城から一転、低所得の独身女性のための住居となる。ここから、安心で快適な暮らしを女性たちに保証するアパートの堅牢な鉄筋コンクリートの厚い壁は、居住者たちを社会から隔絶するものに変わってしまったのだろうか。「男子禁制」の規則も、戦後は一転、居住者が自ら遵守するようになったという。

 そんな、戦後の大塚女子アパートの雰囲気をよく伝えるのが、戸川昌子の処女作『大いなる幻影』である。戸川は戦後、母親とともに焼け出されて行き場を失い、大塚女子アパートに入居する。暮らしてみると、戦中から修復されることなく放置され、地下の浴場は閉鎖され廃墟と化していた。そんなアパートの様子に想像力を掻き立てられて生まれたのが、ミステリー『大いなる幻影』だったのだ。そこでは、孤独な女性たちの葛藤がぶつかり合うことで物語が展開してゆく。

 亡き夫の遺した意味不明の論文をくりかえし清書しつづける未亡人と、彼女に劣等感を抱いてその生活を覗き見しようとする管理人の女性。演奏家になるという夢に破れ、過去に犯した過ちに囚われたヴァイオリン教師。裾のほころびたロングスカートを着たきりで、ごみだらけの部屋で魚の骨を煮ては食べている元・図画教師。かつての教え子に毎日手紙を書くことを自らに強いて、それをひたすら守りつづける元・女学校教師。

 『大いなる幻影』の登場人物たちをこうしてなぞると、アパートにはかつては華やかだった「職業婦人」たちの孤独な末路がせめぎあっている風である。しかし現実は、お互いに余計な干渉もせず、一方では気さくなつきあいも持てる、とても暮らしやすいところだったという。そう回想するのは、戸川にすこし遅れてアパートに入居した、フェミニズム批評の先鋒・駒尺喜美である。当時二十七歳の彼女は、女性運動家小西綾を追って上京、大塚女子アパートに住み、そこから大学へ通った。駒尺がのちに、上野千鶴子の『おひとりさまの老後』にも紹介されたシニアハウス「ともだち村」を建設し、「血縁によらない共生」を目指したのは、大塚女子アパートでの生活が影響していると著者はいう。

 「私はグループを作って本を読んだりおしゃべりするのが好きで、大塚女子アパートにいたときから、そういうことをしていたんですが、どこに行ってもそれをつなげて血縁でなくても一緒に住むようになった」

 法政大学の非常勤講師になった一九六六年、小西綾とともに大塚女子アパートを去るが、ここでの生活がそういうライフスタイルの原点となった。現在でも、家賃の高い東京では、友人とルームシェアして住む人はいるが、駒尺は経済的な理由からではなく、自分の生き方としての「共生」を選んだのだ。

 2001年、日本建築学会より東京都に提出された「旧同潤会大塚女子アパートメントハウスの保存・再生に関する要望書」には、これが「女性の社会進出という時代の趨勢を端的に反映したアパートメントハウスである」という見解が示されている。たしかに、高収入の女性専用という同潤会のコンセプトは、当時の言葉でいえば「職業婦人」という自立した働く女性たちが東京の街で活躍しはじめた時代であればこそのものだ。

 しかし、建設当時の時代を反映している、としただけでは、大塚女子アパートが働く女性たちにとってどんな意味を持っていたのかを示すことにはならない。アパートに住まった女性たちのエピソードを紹介しながら、戦争によって様変わりしたそのありようと、2003年の解体までの歴史を眺めてみてはじめて、それはみえてくるのものなのだろう。

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