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『戦後批評のメタヒストリー』佐藤 泉(岩波書店)

戦後批評のメタヒストリー

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「「戦後」観を再審に付す」

 いよいよ憲法改定が政治のスケジュールにのぼってくるようだ。憲法を守るか、改めるか、いずれにしても戦後60年の歴史をどうとらえるかが焦眉の課題だといえる。しかし、戦後とひとくちに言っても単純ではない。憲法改定論者は、たいてい日米関係のみを取り上げ、アメリカに押し付けられた憲法だと言い、アメリカからの自立を主張する。しかし、占領下の時代も、そして占領が終わってからも、日本は戦後憲法を喜んで受け入れ、政府も軍事費に割く予算を経済政策にあててきたのである。それでいて国際情勢に応じて、押しつけた憲法はどこへやら、警察予備隊から自衛隊にいたる実質的な自衛軍創設、憲法9条の空洞化を求めてきたのもアメリカなら、テロ戦争に向けて応分の負担を求めるべく、憲法改定をのぞんでいるのもアメリカだ。押し付けられたとはいうものの、改めるのも外圧ではどこかへんじゃないか。
 こうしたややこしい「戦後」をとらえ返すには、いま現在、流通している歴史観や遠近法は当てにならない。都合のいいデータだけ抜き出して、こちらの遠近法に合わせるのではダメだろう。研究者たちの地道な資料解読や分析がプロセスとして必要になってくる。当座すぐの政治的効果はむずかしいかもしれないが、歴史の遠近法をたえず問い直し、更新していくことは未来への使命でもあると思う。
 佐藤泉による本書も、戦後日本の文学および文学批評の歴史を徹底して考え抜こうとしている。「メタヒストリー」というタイトルは、構築されてきた「ヒストリー(歴史)」そのものを再審に付していくという著者の考えをあらわしている。文学をフィールドにするのが回りくどいと感じるひともいるかもしれない。どうして戦後史そのものに切り込まないのか。だが、歴史という学問は事実究明を第一目的に掲げてしまう。ところが、この社会ではときとして事実が何かということよりも事実のイメージやある出来事についての表象の方が力を発揮する。文学はそのイメージや表象を生み出していくメディアである。とりわけ、近代日本は文学を重要な文化の柱とし、文学が巨大な読者を獲得した希有な社会だった。戦後、1970年代まではそのピークにあった。そうした特質をもった社会だからこそ、むしろ文学に限定することで見えてくるものがあるのだと思う。「文芸評論は戦後=被占領をどのように記憶したのだろうか」という問いがこの本を貫くモチーフである。
 とりわけ佐藤の本で強調されているのは、1945年以後の占領期と朝鮮戦争をはさんだ1950年代である。この時期は、東西冷戦にともなう朝鮮半島の分断と朝鮮戦争中華人民共和国の成立、日本における占領軍に対する反米運動、世界的な民族独立・解放運動などがあり、これが国内の左翼運動の混迷と分裂、暴走と孤立という幾重にも複雑な歴史的経緯がつまっている。60年代以降に成立した戦後のとらえ方とは異なる文脈がある。そんな錯綜した歴史の断層を切り開いてみる思いがする。
 ただ、さまざまな事象にふれ、さまざまな発言をとりあげていく佐藤の論述は、論旨をたどるのにかなり頭を使う。同じことをわざと難しく書いている、いかにも学者の文章だ、私自身かつてそんなふうに言われたものだが、佐藤の本を読むと、自分に言われた批評を思い出す。かみくだくのに苦労するのだ。具体的なように見えて概念的、論理的なように見えて飛躍が多いからだ。
 彼女の考え方を序章の「『占領』を記憶する場」からたどってみよう。戦後民主主義という言葉は、70年代以降、新左翼からはアナクロニズムの代名詞となり、江藤淳ら保守派からはアメリカ軍の占領による日本人の洗脳状態を示す代名詞とされた。この古ぼけた民主主義と自由こそ、戦後日本に刻み込まれるのだが、同時にそれはアメリカの専売特許でもあるから、民主主義を重視すればするほど、アメリカ的な西洋中心主義の奴隷にならざるをえない。ナショナリズムはそうした事態への抵抗線としてあり、戦後左翼が反米ナショナリズムを唱えた背景にはこうした文脈があった。佐藤はそのなかで竹内好に注目する。竹内は民主主義の普遍化に対抗しながら、ナショナリズムを刺激して「独立」を主張する共産党への批判をくりひろげる。戦後、植民地解放運動のなかで培われたナショナリズムに敬意を払いながらも、それが国家の制度的独立を目指すかぎり、近代国家の枠組みから出ることはできない。竹内の目的はひとびとの生活意識のなかから異なる民主主義を形成することであり、だからこそ生活記録運動をふくめた「国民文学論」を唱えたのだという。
 浮かび上がってくる断層は、さまざまな土壌からなる地層を見せ、亀裂や褶曲がおびただしい。それらの痕跡をたどりながら、大地にはたらいた巨大で複雑な力の葛藤をとらえようとしている。竹内好、あるいは松本清張平野謙三島由紀夫といった固有名詞に当時の言説空間の焦点を当てすぎて、かれらのなかの言説の変化、ポジションの変容にともなうずれよりも、やや人格的に実体化されていないかという危惧は残るものの、60年にもわたる長い「戦後」を再考する貴重な一冊だと思う。文学研究のみならず、社会史や思想史などの歴史学、社会科学の研究者にも刺激的である。

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