『悪魔という救い』菊地 章太(朝日新聞社)
なにも渋沢龍彦まで遡るまでもなく、キリスト教こそが悪魔を必要としているのだ。でなければ、スポンサーがいなくなってしまって、システィーナ礼拝堂に描かれた有名なミケランジェロの「最後の審判」も、オルビエートのルカ・シニョレッリも、あまたのボッスの絵画も、ゲーテの「ファウスト」も、メムリンクさえも楽しめないことになってしまう。本書が、ヴァン・デル・ウェイデンの「十字架降下」をサンプルとしたことは好例であって、この聖母に感情移入しないでいることは、誰にとっても困難であろう。そして、本書を読み通したものは、悪魔-あるいは不可知のものへの畏怖心-が救いを生み出すことに気づくであろう。
「悪魔とは堕天使である」という定義は、本書が要約するところのローマンカソリックの教義書『カテキズム』が典拠するところだ。この書物は教理上の悪魔についての見解を示しており、いわばその分野のオーソリティーである。要するに、「天使がグレた」(本書P.122)のだ。パゾリーニの「奇跡の丘」に登場する悪魔は、そのほうけた表情といい、イエスを試すときの、鈍さといい、優れて哲学的な悪魔である。歴史的なキリスト教の立場としては、悪魔は最終的にこのような愚か者でなくてはいけないのであるが、現代になって描かれる悪魔はどうも様子が違うようだ。「エクソシスト」は、わたしが9歳の時の映画で、一大オカルトブームを起こした。「オーメン」もそれに続けて大ヒットして、小学校や銭湯の下駄札に「6」がふたつでもついていたなら、怖くてその札を取ることができなかった。友達の頭皮に数字が書かれていないか頭髪を掻き分けて探したりした。それにつけても、西洋の悪魔が、日本のお化けよりずっと恐ろしく感じられたのはなぜだろう。一族の因縁、名前の一致、数字の一致、といった符丁が、似非科学雑誌を読む少年少女にとって、取り憑かれるかも知れない恐怖を掻き立て、それが却って悪魔を信じることに至ってゆく。著者は悪魔学について大学で講義した際の反応を記録しているが、恐怖心を感じる学生もあれば、どうせ外国の迷信だから無関心、という学生もいるそうだ。哲学科の学生なのに無関心、というのは知的態度として全く感心できない。最近翻訳が出たDarren OldridgeのSrange Historiesは、悪名高き異端審問書「魔女の鉄槌」で紹介される数多の拷問をはじめ、空飛ぶ豚の裁判や、馬の絞首刑など、中世来の欧州における血みどろの愚行のオンパレードであり、つまり民衆が悪魔を真剣に恐れない限り、布教などということはあり得なかったのだ。個人的には日本人は無宗教などではなく、多宗教であると思うのだが、たとえば悪魔の存在を信じることが、西洋思想史の深みへの入口であることは、言うまでもないだろう。恐怖心もこうして時には役に立つというものだ。
(林 茂)