『編集者齋藤十一』齋藤美和(冬花社)
「ひきこもり型編集者の時代は終わった」
新潮社の重役であり、数々の文豪を育ててきたとされる伝説の編集者、齋藤十一の追悼文集である。
「伝説」とは情報の格差によって生じる。
齋藤十一は「編集者は黒子である」という立場から、表舞台に顔を出さず、マスコミの取材を受けないことから、その伝説をつくりあげることに成功した。
公開された生前の写真がほとんどない、ということがマスコミ内でまとこしやかに語られているが、夜討ち朝駆けで追い込んでしまえば撮れるはず。齋藤と新潮社に遠慮して取材しなかった、ということだろう。
この国ではマスコミ関係者に対する取材攻勢はきわめて緩い。
齋藤が活躍した時期、新潮社ブランドは、一定の力を持っていた。
しかし、右肩あがりの出版好況の時期は、長い歴史のなかではほんの一時期にすぎない。
新潮社はそのあおりをもろに受けている出版社だ。ドル箱だった新潮文庫はブックオフの台頭で、かつてのような売り上げは見込めなくなった。編集者の高齢化というどこにでもあるありふれた問題にも直面している。
何年か前には給与の遅配、という情報が業界内を走った。その後「新潮新書」を創刊し、『バカの壁』(養老孟司)がミリオンセラーになって息を吹き返す。力のある編集者がいるのである。
齋藤十一は、「週刊新潮」、『FOCUS』などを創刊したことで知られる。
「人殺しの顔を見たいと思わないか」という名言で『FOCUS』を創刊したことは出版業界ではよく知られている。
しかし時代は変わった。
その齋藤イズムの継承者は、新潮社内にもちろんいるだろう。しかし、社員数300人足らずのなかで、『週刊新潮』に配属されている人間は数十人。
これに対して、インターネットの匿名の投稿者によって、犯人の顔写真を匿名巨大掲示板にアップする人間の数は無数。2ちゃんねらーに彼らに社会的責任を求めても無駄。「人殺しの顔を見たいと思わないか」という問題提起はない。「そう思うからネットで見て、それを無料でシェアしていく」というネットの暗黒面の実践をしていくのである。
いまや、齋藤イズムを正当に継承しているのは、「2ちゃんねる」の住人ではないか。
同書で斎藤は『僕は人とは付き合いませんからね。一人でいる方が楽』とコメントしている。
引っ込み思案で、引き籠もり傾向のある人だった。
そのくせ、俗情に訴えかけるセンスがある。
齋藤は早すぎた「2ちゃんねる」の住人だったのではないか。
いや、現代の「2ちゃんねる」の住人の方が齋藤十一よりもラジカルである。
齋藤十一はその住居を知ることはできた。新潮社という組織の役員であり、司法ぎりぎりの表現という挑戦をすることを強いられる。
しかし、匿名者はその名前も住所も不明。
出版業界への敬意の念もない。ただひたすらに、匿名者という特権性に隠れてプライバシーを侵害するものの、その責任はとろうとしないのである。
齋藤イズムによって創刊された『週刊新潮』、『新潮45』的な言説は、いまや名誉毀損訴訟の引き金になる記事を発表する媒体として、司法関係者、報道被害関係者にすっかり知られてしまい、その「報道加害者」としてのの地位は確たるものになってしまった。
齋藤十一という人間は、佐藤家という創業者の家庭教師という立場から入社し、その経営を担ってはきた。しかし、「人に会うのが嫌いな」経営者とは不可解である。経営のリスクをどこまで負っていたのか、という疑念がわく。そういう経営者がいてもいいのだが。
こうしてみると、斎藤十一はみなが持ち上げるほどの伝説の編集者といえるかどうかは疑問である。
まだ調べてはいないが、斎藤十一が被告として法廷に立ったことがあるのかどうか。この書籍を読んで、私は被告経験があるのかどうか、といぶかしんだ。
なんというか、経営と司法にかかわるリスクは周囲にまかせて、クラシックレコードを聴いていた老人という姿が浮かぶのである。
その意味で経営危機を噂された新潮社が「2ちゃんねる」の掲示板から『電車男』をつくってベストセラーにしたことは、斎藤十一のDNAを継承する社員がいたのだ、という思いに駆られる。
匿名者のコメントを一定の編集方針をもとに構成して商品化する。
これは『週刊新潮』がよくやっている手法である。
タイトルを決めてから記事を作る。そのストーリーテリングの手法を週刊誌に持ち込んだことは見事。
しかし、いまや混沌とした情報空間のなかから、読み手が自分で情報を編集し、発行するブログ時代が来た。このとき、斎藤十一的な雑誌のプロデュース手法は一定の効力を喪失することになる。
齋藤十一よりももっと無責任でラジカルな編集者が求められてるわけだが、会社組織としてそのようなリスクを奨励することには限界がある。訴訟リスクに耐えられないからだ。
新潮社は転換期を迎えている。
齋藤十一を超える、カリスマはもういないし、時代が必要としていない。
いま、時代はマスコミ不信の風が吹いている。
人々は「報道加害者の顔が見たい」と思っている。
もし齋藤十一が生きていたら、逃げることはできない。『齋藤十一』という書籍は、その時代の転換点を指し示す好著である。
21世紀は、引きこもり型編集者、齋藤十一では対応できないのである。