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『生きるための経済学-<選択の自由>からの脱却』安冨歩(NHKブックス)

生きるための経済学

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「虐待された迷えるアダム・スミスの亡霊に市場経済は支配されている」

 マイペースで経済の勉強をはじめて1年ほど経ったろうか。
 そうしたら、昨年、サブプライムローン問題が顕在化して、世界経済が大混乱に陥った。優秀な頭脳をもった経済の専門家たちがとんでもないことをしてくれた。日本でも、国会が日銀総裁を決定できないために空転した。すったもんだのあげくに決まった日銀総裁は迫力がない。福田総理は自信喪失した老人というイメージがすっかり定着している。これでは世界から舐められるだろうな、と思う。

 著名経営者によるビジネス書も読んでみた。彼らの主張を整理すると、人並み以上に仕事をし、いつも感謝の気持を忘れないでいると、顧客のニーズがわかり、その満足を得るために働くと仕事は楽しくなる、と説く。ワーキングプアが増えている時代に不可解である。大衆をだますための創作話のようであるが、多くの人が信用しているようなので、ヘンだ、とは言いにくい。

 市場経済とはそんなにかんたんな原理で動いているのだろうか。

  

 この市場経済という、わかったようでわからない概念を知るために本書を手に取った。

 著者の安冨歩氏は、この市場経済学の土台が非科学的な仮定の上に成り立っていると論じている。

 「市場経済学は、さまざまの仮定の上に成り立っているが、その仮定の多くはじつは非現実的である。非現実的というのは『現実の経済の姿をゆがめている』というような生易しいものではない。多くの仮定が物理学の諸原理に反している、という意味で非現実的なのである」

 市場経済学は「相対性理論の否定」、「熱力学第二法則の否定」、「因果律の否定」という三重苦のうえに立っているのである。きわめて脆弱な基盤と言わざるを得ない。著者が、そのひとつひとつを証明していくさまを読みながら、経済学とは人々をだますインチキ学問ではないかといぶかしんだ。

 この3つの非科学性を論証した後に、市場経済学の中核の考え方のひとつ「選択の自由」という「希望」こそが、現代社会にいきる私たちを呪縛し、生きづらいものにしていると分析する。

 資本主義を維持、発展させるためには、人々が本来必要な消費よりも多くのものを消費するようにし向ける必要がある。「消費の自己目的化」である。

 「消費を自己目的化するということは、消費依存症になることである。自動車・携帯電話・インターネット・ファッション・ダイエット食品などはその典型である。それなしでは生きていけない、という気分になることがその症状の特徴であり、消費者の多くがそうなったときにはじめて、その業種は産業として安定するのではなかろうか。今日では、企業活動の主たる目的は、消費者を自社の商品やサービスの依存症にすることであると言うこともできる」

 このような過剰な消費を批判する言説をつくりだすことは、ジャーナリズムの得意分野である。著者のような経済学者が、こうした発言をすることが意外に感じられた。経済学とは、膨大な統計データをよみこんで、解読・分析し、それに基づいて、資本主義がさらに発展するために貢献する学問ではないかと、思っていたからである。(マルクス経済学のような、思想的立場が明らかなものは別)。そこには、学者としての主観やインスピレーションよりも、数値というデータを信じ、客観的に論じるべきという、確固としたルールがあるもの、という先入観があった。その先入観を著者はきもちよく裏切ってくれた。

 著者は、自分自身の体験も書かずにはいられない。

 仕事依存症になったこと。結婚を2回して、その結婚生活に破綻したこと。自殺を考えていたこと。個人的な事件さえも、市場経済の歪みが影響していると、深く洞察し表現している描写は見事。著者は、身を投げ出して本書を書き上げているのだ。

 現代の経済学では「選択の自由」とは疑うことができない真理とされているようだ。その市場経済学の前提を懐疑していくと、資本主義の父たる、アダム・スミスへの批判にゆきつく。

「人間の利己心の正体は虚栄心であると主張したスミスは、この利己心に従うことが社会秩序の根源になる、という議論を展開した。この主張の急所は、人々の利己心の本質である虚栄には最初から他者の目への意識が入っている、という点にある。

 利己心の基盤は虚栄であり、虚栄とは人の目に自分が立派に映っているようにと願う心である。人が激しく競争するのが虚栄のためであれば、財産を求めるのも虚栄のためであり、とすれば、露骨な略奪によって財産を築いたのでは、虚栄が失われてしまう。こうして自由放任政策を採ろうとも、秩序が保たれる、ということになる」

 論理の詳細については本書に譲るとして、この虚栄に基づいて生きていくとどうなるか。他者からみて望ましい人間にならないと不安でたまらなくなり、激しい労働に駆り立てられる、満たされない思いを解消するために消費依存症になる。著者のいう、自我を喪失した「自動人形」になってしまう。

 これは「死に魅入られた経済」(ネクロフィリア・エコノミックス。略してネクロ経済)である、と著者は言う。このネクロフィリアの思想が経済学に持ち込まれたのはなぜなのか。著者はアダム・スミスが母親から虐待を受けていたからではないか、と推察している。幼児期に母から疎外されたスミスは「精神的苦しみに苛まれ、恐怖と懸念とに脅かされ、死に魅入られていた魂」の持ち主だった。簡略して紹介すると、強引な論理展開に見えると思うが、たいへん説得力のある記述なので、ぜひ、実際に本書を読んで確かめて欲しい。

 著者は、この「死に魅入られた経済」を克服し、「生命を肯定する経済」(ビオ経済)に歩むべきである、と提唱して本書を終えている。

 死に魅入られた経済から、生命を肯定する経済の動きはそこかしこに見られる。社会起業家たちの登場と、社会からの期待は、その現れのひとつだろう。

 虚栄と不安を養分に成長した「ネクロ経済」から、善意と肯定を養分にした「ビオ経済」への転換期に私たちは立ち会っているのだ。

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