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『大分岐-中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成』K. ポメランツ著、川北稔監訳(名古屋大学出版会)

大分岐-中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成

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 帯に「ユーラシアにおける発達した市場経済は生態環境の制約に直面していた。なぜ西欧だけが分岐していったのか。グローバルヒストリーの代表作」とある。「グローバルヒストリー」ということばは、本書の原著英語版が出た2000年ころから、よく聞くようになった。「世界史」「ワールド・ヒストリー」とどう違うのか、所詮は史料が残っていてその史料に基づいた研究が多少発展している国や地域の「知の帝国主義」の産物にすぎないのではないか、といったような疑問に答えてくれるのか。まずは、本書を日本語で読むことができるようになったことにたいして、翻訳者らに感謝したい。


 本書「序章 ヨーロッパ経済発展のさまざまな比較、説明、叙述」は、つぎの文章ではじまる。「多くの近代社会科学の起源は、一九世紀後半から二〇世紀にかけてのヨーロッパ人による、西ヨーロッパの経済発展の径路を独特なものにしたのは何なのかを、理解しようとする努力にあった。しかし、それらの努力からは、何ら共通の理解がもたらされていない。大規模で、機械化された、工業化の初期局面を説明するため、大半の文献はヨーロッパに関心の的を絞ってきた。世界の他地域とのさまざまな比較をすれば、決まってつぎのような説明になった。「ヨーロッパ」-西ヨーロッパ、プロテスタント圏ヨーロッパ、あるいはたんにイングランドなどの表現がありうるが-の境界線の内側には、工業化が成功するための何らかのユニークで、自主的な要因があったか、さもなければ、何らかの障害からヨーロッパだけがまぬかれていたのだ、と」。これだけでも、本書がヨーロッパ中心史観から抜け出せない研究者にとって、衝撃的な書であったことが想像できる。


 そのヨーロッパ中心史観の「西ヨーロッパ経済には産業の変化を生み出す独自の能力があったと断定する議論は、大きく二つのグループに分けられる」という。「エリック・ジョーンズに代表される最初のグループの議論は、「前工業化」社会の表面的な類似性をもとに、一六世紀から一八世紀にかけてのヨーロッパは、物的、人的双方の資本蓄積において、すでに世界の他の地域にはるかに先行していたとする」。「第二のグループの議論は、富の水準にはあまり関心を払わないが、その代わりに、近世ヨーロッパ(ないし、その一部)では、他の地域より経済発展を導く効果が強かったとされるタイプの組織が台頭したことを強調する」。


 これらの議論にたいして、著者、ポメランツはつぎのように答えている。「本書は、こうした議論-おおかたは、各種の「制度学派」的なもの-から多くの論点を借用しているが、しかし、最終的には、まったく別の主張をするものである。第一に、資本主義の起源をどれほど遠くさかのぼれるにしても、無機質エネルギー資源の大規模使用によって、前工業化社会に共通の制約からの解放を可能にした産業資本主義は、せいぜい一八〇〇年代に勃興したにすぎない」。「第二に、ヨーロッパの工業化は少なくとも一八六〇年まではブリテン島外ではなおさらきわめて限られていた。だから、そもそも西ヨーロッパに共通の特徴に基づいて「ヨーロッパの奇跡」を唱えることは危険であるが、ましてや、西ヨーロッパに広く共有されていたものの多くは、少なくともユーラシアの他の地域にも同じように存在していたのだから、なおさらそうなのである」。


 本書は、日本語版への序文、序章、3部、各部2章の全6章、6つの補論からなる。終章やあとがきなど全体をまとめるようなものはない。本書「第Ⅰ部 驚くほど似ていた、ひとつの世界」は、「ヨーロッパが一八〇〇年以前に、それも内生的に、経済的優位を確立していたとするさまざまな主張に疑義を呈し、反対に、旧世界における人口稠密で、商業化されたいくつかの地域間には、類似性が広汎に見られたことを主張する」。「第1章 ヨーロッパはアジアより早く発展したか-人口、資本蓄積、技術」は、「物的な資本の蓄積にかんしても、ヨーロッパは、一八〇〇年以前に決定的に優位にあったわけではないこと、また、他の多くの大規模な経済と比べても、ヨーロッパがマルサス的圧力からより自由であった(したがってまた、投資の可能性がより豊かにあった)わけでもないことを、多数の地域から集めた史料によって描き出」す。「第2章 ヨーロッパとアジアにおける市場経済」は、「市場とそれに関連する制度を取り扱う。主に焦点を当てられるのは、西ヨーロッパと中国との比較である。そこに示されるのは、[フランス革命の始まる]一七八九年においてすら、ヨーロッパの土地、労働、生産物の市場は、中国の大半の地域以上に、全体として完全競争からはかけ離れたものでしかなかった」ことである。


 「第Ⅱ部 新たな経済は新たな精神から生まれるのか-消費、投資、資本主義」は、「たんに生存することを目標とするのではなく、新しいタイプの消費需要が生まれてきたこと、それに応じて文化的・制度的な変化が生じたこと、需要の差異が生産に重要な影響を及ぼした可能性があることを、検討する」。「第3章 奢侈的消費と資本主義の勃興」では、「中国、日本、西ヨーロッパは、他の地域とはっきり区別できたが、この三地域相互間では、大きな差異がなかったことがわかるであろう」とし、「第4章 見える手-ヨーロッパとアジアにおける企業構造、社会・政治構造、「資本主義」」では、「新しい「奢侈品」-[略]-を市場にもたらした商人と製造者を考察する」。


 「第Ⅲ部 スミスとマルサスを超えて-生態環境の制約から工業の持続的な成長へ」では、「ヨーロッパの発展径路の内的要因と外的要因の関係について、新しい考察の枠組みをスケッチする」。まず、「第5章 共通の制約-西ヨーロッパと東アジアにおける生態環境の重圧」で、「ユーラシアの最も人口稠密で、市場志向的で、また、商業的に洗練されたすべての地域で、さらなる成長を阻害した深刻な生態環境的障害についての議論から始める」。ついで、「第6章 土地の制約を外す-新しいかたちの周辺としての南北アメリカ」では、「工業化進行中のヨーロッパで、土地の制約が劇的に解消された事実について考える」。


 序章の最後で、著者は、「地理的範囲についての覚え書き」を設け、つぎのように注意を促している。「本書は、活発な研究分野である「ワールド・ヒストリー」の列に加わるものだが、世界の諸地域の取り扱いには、非常に偏りがある。中国(原則的に中国東部および南東部)と西ヨーロッパについては、かなり詳細に論じるが、日本、南アジア、中国内陸部についてはそれほどでもない。東ヨーロッパ、東南アジア、南北アメリカについては、さらに言及することが少ない。アフリカについてもそうで、例外は奴隷貿易にかんしてのみである。中東、中央アジアオセアニアには、ほとんど言及しない」。「要するに、ヨーロッパの物語に、中国や日本の例を少々貼り付けたくらいでは、「ワールド・ヒストリー」にはならないということである」。


 第Ⅰ部と第Ⅱ部には、それぞれの部のおわりに結論がある。「第Ⅰ部の結論-近代世界経済における多数の中核と共通する制約」では、「一九世紀中葉以前のヨーロッパにおいて、ヨーロッパが生産性の優位を確立したのは、内生的な要因によるものだったとするさまざまな議論を検討し、それらがすべて疑わしいという結論に到達した」。「第Ⅱ部の結論 類似点の重要性-そして相異点の重要性も」では、「一八世紀中頃になっても、西ヨーロッパだけが生産的であり、経済的にも効率的であったということはなかったように思われ」、「一八世紀末、とくに一九世紀になって、予想もしなかった大きな断絶が起こって、入手可能なエネルギーと資源の根本的な制約-すべての者の視野を限定してきた-が突破できたとき、西ヨーロッパ経済は初めて、幸運な変わり種となった」と結論した。

 第Ⅲ部のおわりには、「結論」がない。第5章では、石炭の発見が重要なブレイクスルーになったことを明らかにし、第6章では「新たな種類の貿易相手」となった新世界の重要性が論じられている。そして、「大西洋貿易を自立的に拡大しつづけるユニークなものたらしめた決定的な要因は、おおかたヨーロッパ外的な、非市場的な要因であった」として、つぎのように説明している。「この貿易が利用できたからこそ、ヨーロッパ(とくにイギリス)は、強い圧力のかかった土地を救い出すことにその労働力と資本を投入し、(東アジアとは違って)農業の発展をはるかに上回る人口とプロト工業の拡大を、さらなる発展の基礎に転じることさえできた」。その結果、「市場外のさまざまな力とヨーロッパ外の諸々の複合状況こそは、ほかには何の変哲もない中核のひとつであった西ヨーロッパが、唯一、ブレイクスルーを達成し、人口を激増させながら前例のないほど高い生活水準をも実現して、一九世紀の新しい世界経済の特権的中心としての地位を固めえた最も重要な原因であった」という本書の結論を導き出している。


 本文で充分論じられなかったことは補論A~Fで補足し、原著が出版された2000年以降に、本書をめぐって闘わされたさまざまな議論は、「日本語版の序文」にまとめられている。見出しをあげれば、つぎの通りである:「分岐の程度-どれほどで、いつ分岐したのか」「持続的成長の開始をどう説明するか」「比較史上の近世中国」「「近代化の東アジア型径路」?」「議論の糸を寄り合わせる」。


 「地理的範囲についての覚え書き」で、本書の限界が述べられているように、「ワールド・ヒストリー」を目指しながら、その目標とはほど遠いものしか書けないことは、著者がいちばんよくわかっている。それでも、ヨーロッパ中心史観から抜け出す第一歩になったことは確かである。問題は、比較の対象とした非ヨーロッパ諸地域の研究状況である。非欧米人研究者が、欧米の留学先などで学んだ近代の価値観で研究を続けるかぎり、またそれぞれの歴史や文化を背景とした新たな歴史観を創造しないかぎり、ヨーロッパ中心史観から抜け出すことはできない。「ワールド・ヒストリー」と「グローバル・ヒストリー」とは、どこが違うのか。著者は、どのように使っているのか。論じるだけの研究蓄積はまだなく、まだまだ延々と「補論」が続くことになる。 

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