『田舎暮らしに殺されない法』丸山健二(朝日新聞出版)
「少数派を殺す田舎を変えるためには、よそ者、若者、馬鹿者の特徴を持った人間が必要だ。」
浜松まつりで駅前を歩いた。外国からの移民が多い。駅前を歩く人々の約10%は日本人ではない外見だ。日本人の外見と見分けがつかないアジア系の人たちをあわせば15%くらいは外国人ではないかと思った。近隣からの外国人も浜松まつりに来ているはずなので、ニューカマーたちがいつもよりも集まったのだろう。
浜松市は人口、企業の集積度などから静岡県最大の都市である。そして外国人の在住者数は静岡で一番。日系ブラジル人の在住者は日本一。
浜松は田舎とは言えないが、つい20年前までは田舎だ、と言いうる土着性があった。いまもその日本的な共同体意識は強く残っている。浜松まつりは、その地域の共同体(自治会)の強さがあるから実現しているのである。
その浜松という田舎に、ホンダ、ヤマハ、スズキというグローバル企業があり、単純肉体労働という需要があった。若い日本人達は、その労働を嫌い、都市に新しい人生を求めていった。その隙間を埋める労働力が日系ブラジル人たちだった。彼らは、浜松の田舎性と直面することになった。浜松の人も、ブラジルの異文化と衝突することになった。一部はうまくつきあっており、多数は互いに距離を置いて仕方なく付き合っている。
私も浜松市のニューカマーの一人として、浜松の人たちとの交流が増えている。
いま日本の田舎に何が起きているのか? を知るために手に取った。
相変わらずの丸山健二節。普通の日本人の脆弱な生き方を苛烈に批判する。老人の繰り言のように感じる文章もあるが、全体のトーンとしては正鵠を得ている。
日本人の都市住民と、田舎住民との軋轢くらいでは、田舎文化は消滅しない。いま田舎文化が消滅しつつあるのは、田舎そのものが「限界集落」として、地域まるごとが消滅する危機に瀕しているから。ここに取り残された人たちは、いま困窮のなかにある。それに対する同情的な言説が増えており、それには一定の真実性はあるが、過疎を超えて、限界集落にいたるには、その地域住民にもまた責任がある。それは、外部からの 知恵を導入することを拒否し続けた閉鎖性、自民党政治のような利権政治への盲従、プライバシー意識なき近所づきあいしかできない感性の硬直性・・・そんな ことを、丸山健二はぐいぐい描写している。
都市生活に疲弊した団塊世代たちは、静かな田舎生活、スローライフにあこがれるが、人口減少地域において生きると言うことは、日本のなかの暗部と向き合うことも強いられる。その覚悟を決めて移住しても多勢に無勢。多数派である先住民のいうことをきかないと生活がなりたたない。短期的に自由にくらせても、老いていく肉体はいかんともしがたい。こうして、都市住民は、田舎住民に支配されていくことになる。この支配から脱皮する力をもった移住者だけが、自分らしい生活をすることができるのだろう。 それには、「よそ者」「若者」「バカ者」という地域活性化のためのキーワードを見つめ直すことだ。 疲弊した田舎は、これら3者をはじき出して、共同体の安寧を保持してきた。その代償が限界集落という、地域自死の風景である。この3者を一気に注入できる属性を持った人間集団、それが浜松では日系ブラジル人だったのだ。
大勢の異人が大勢の土着民と出会えば、まっとうな文化衝突が起きる。その衝突によって発生する化学反応が浜松という田舎を変えてきた。
この本を読みながら、東京という都市生活者の困窮にも気づくことができた。
人間はどこまで、過密、高騰家賃、長距離長時間通勤、まっとうな身体運動が不可能な環境に耐えることが可能なのか。これもまた別のアングルからみれば、限界集落の一形態である。
本書によって、空虚な人生を送ってきた都市在住の団塊世代と、やはり、空しい生活を送ってきた田舎住民とが、絶望的な出会いを繰り返しながら、田舎おこし関連産業に搾取されていく構造を知ることができた。 この国の人々の閉鎖性を突破しようとする勇気ある人々は、本書に書かれている現実を知ったうえで田舎にいくと良いだろう。日本の田舎住民の精神風景、ひいては、都市住民たちの原風景を知るための好著である。