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『パレスチナとは何か』エドワード・サイード(岩波書店)

パレスチナとは何か

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ディアスポラを生きる」

岩波の現代文庫として文庫化されたのをきっかけに、サイードの『パレスチナとは何か』を読み返した。この本はサイードがスイス人の写真家ジャン・モアの撮影した写真の中からパレスチナについて考えるために役立つものを選びだし、その写真を眺めながら、故郷のパレスチナについて語ったものである。

D・グロスマン『死を生きながら』(みすず)は、テロにおびえるエルサレムで生活するというのはどういうことかを実感をもって教えてくれた書物だが、『パレスチナとは何か』は、故郷を追い出され、テロリスト扱いされながら生きるパレスチナ人がどのような思いをさせられているかを、一枚一枚の写真を手がかりに、ありありと描き出している。市場の隅で、野原で、人々の顔や風景という具体的な場から解き明かされるので、パレスチナの人々の生を、まるで隣人の生のように感じ取ることができる。

突然、生まれた場所から追い立てられ、国籍もないままで、難民として生きるか、あるいはイスエラルの中で邪魔者扱いされながら生きることを強いられた人々の生活とメンタリティがどのようなものとなるか、日本という島国で暮らしているぼくたちにはなかなか想像しにくいだけに、貴重な一冊となっている。

パレスチナの人々にとって不幸なことは、パレスチナを故国としてやってきたイスラエルの人々が、ヨーロッパでユダヤ人迫害にあい、ホロコーストを経験してきたことである。イスラエルに敵対する人々は、ホロコーストの加害者の位置に立たされてしまうのである。「大半の西洋的なレトリックにおいて、私たちは、ナチや反セム主義者が占めている場所にいつの間にか滑り込まされてしまう」(p.23 ただしページ数は単行本のもの)のである。やがて奇妙なことに、パレスチナの人々みずからが、自己のアイデンティティを「他者」として知覚するようになる(p.53)のである。

ユダヤの人々は第二神殿の崩壊の後、世界の各地に「散らされた」ディアスポラの民として生きることを選び、あるいは強いられてきた。長い困難な歴史の末に、イスラエルという国において、はじめてこの散らされた生活に終止符をうつことができたのだった。しかしそのことには大きな代価があった。イスラエルがみずからディアスポラの民をつくりだす原因となったのである。サイード自身は、パレスチナの民をディアスポラの民として認識することは拒む(p.155)。歴史的に違う概念だからだ。

しかしディアスポラの概念を社会学的にもっと広く解釈することもできる。ディアスポラに生きる人々は、故郷を離れても故郷のことが忘れられない人々であり、生活の根を失っている人々でもある。そしてパレスチナの人々こそまさに、生活のすべてにおいて故郷を喪失し、しかも故郷のことを忘れられない人々、根を失って生きることがアイデンティティそのものとなりかけている人々だからだ。

イードは、息子たちから土地を売却するように迫られている母親を描いたパレスチナの映画のことを語っている。母親がもっているという土地は、イスラエルに占領されていて、もはや所有の実質はない。権利書があるとしても、それは紙切れにすぎない。それでも売却するという決定的な一歩を踏み出すことを母親は拒む。土地があり、そこに強い愛着をもつ自分がいるからだ。パレスチナの人々はまさに故郷に住みながらも、すでに故郷を失い、生きる根を失い、ディアスポラの生を生きることを強いられているのである。

それでもパレスチナの人々はほがらかに、ときには自虐的なまでのユーモアを発揮しながら、しぶとく生き延びている。傑作なのは、イスラエル軍の捕虜となったパレスチナのゲリラの「告白」である。イスラエルはこうしたゲリラを逮捕して、ラジオ番組に登場させて、告白させるのである。たとえばこんな具合だ。

【キャスター】アラファトというテロリストについて君の意見を聞かせてもらおうか。

【捕虜】誓って申し上げますが、アラファト氏こそは最も偉大なテロリストにほかならないのであります。氏こそは、われわれのことも大義をもきっぱりと見限った人物であります。氏の全生涯はテロリズムそのものであります。

 そしてキャスターから他のテロリストに対する助言を求められて、仲間たちに次のように助言する。

【捕虜】まず、自らの武器をイスラエル国防軍に没収していただくこと、そうすれば彼らに致しましても、可能なかぎりで最良の待遇を受けられることを悟るにいたるであろうということであります。

 サイードが指摘するように、捕虜はイスラエル当局を完全に「おちょくって」いる。そして「パレスチナ人の捕虜がテロリズムをパロディー化しているというのに、まるで聞く耳をもたないといったさまを、あらわにしてしまっている(p.87)のである。そして「これに似た他の多数の物語群は、パレスチナ人の間では、叙事詩のようなものとして流布している。それどころか、夕べの余興用として、こうした話を録音したカセットすら用意されている始末」だそうである。食後にテープを聞いて、みんなで笑い転げるのだろう。なんというブラックユーモア(笑)。

書誌情報

パレスチナとは何か

エドワード・W.サイード〔著〕

■ジャン・モア写真

島弘之

岩波書店

■1995.8

■269p ; 19cm

文庫版

■338 p ; サイズ(cm): 15

■出版社: 岩波書店 ; ISBN: 4006031173 ; (2005/08)

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