『他者の受容』ユルゲン・ハーバーマス(法政大学出版局)
「ロールズ論争の一環」
他者の受容というタイトルだが、受容(Einbeziehung)とは、取り入れる、取り込むという語であり、共同体を他者に開き、他者を取り入れる用意をすることである。ハーバーマスの他者の受容とは、「差異にきわめて敏感な普遍主義」(p.1)であり、「差別待遇および危害の撤廃という消極的理念と、周辺化された人々を相互に考慮して受容する」(p.2)道徳共同体という枠組みでの「受け入れ」であり、デリダの過激なまでの歓待の思想ではない。「受容」という概念が他者の問題を考察するのに適しているかどうか、いささかの疑問はある。
そもそもハーバーマスは第一部で道徳性と理性の関係を考察した後に、最後になってこの概念を序文で提示したのだった。第一部のこの文章は討議倫理の普遍化の問題をめぐって展開されていて、他者の「受容」の問題は正面からはとりあげられていない。どうもあとからとってつけたタイトルという印象は否めない。第三部の「差異に敏感な包括」という考察も、少し言葉が滑るようなところがある。
それでも第四部の人権の議論、とくにカントの永遠平和の理念をめぐる論考は参考になる。カントの世界市民をめぐる構想には、さまざまな矛盾があり、カントがそれを隠蔽したところと、別の論理に滑っていくところがあるが、ハーバーマスはそれらの問題点をきちんと提示する。歴史の経過を知っている後代の人間としてカントの構想は穴だらけのようにみえるが、それでもぼくたちはまだ枠組みとしてはこの永遠平和の構想を超えられていないことを実感させられる。
この書物で一番興味深いのは、第二部のロールズとの論争だろう。ロールズの『正義論』の批判というよりも、建設的な改善の提案という視点から、「友好的挑発」(p.64)という形で、ハーバーマスはロールズのいくつかの基本概念に補足的なコメントをつけたのだった。
まずロールズの「無知のヴェール」という手続きについて。ロールズがこの手続きを必要としたのは、検討する問題、とくに社会的な富の再分配という問題を市民が考察する際に、それまでの形而上学的な原理に依拠しないですむ方法が必要だったことにある。ハーバーマスはこの手続きの必要性は「当事者の意識する自己の利害関心から正義原則を導出するためには、合理的に決定する当事者の選択範囲を適切に制限する必要がある」(p.65)ところにみている。ハーバーマスが疑問とするのは、「自立的な市民の理性を、任意の決定を下す行為者の選択合理性に還元」することができるのかということだった(p.65-66)。
具体的にはハーバーマスはこの問題をいくつかの視点から再検討する。まず決定する当事者からは道徳的な内容が抽象されていて、ただ選択する主体としてみなされている。その選択の根拠は、「合理的なエゴイズム」にあるわけだ。しかし問題なのは、この主体から道徳的な善についての理解を除去してしまって、市民全体の「最上位の利害関心」をただしく考慮することができるだろうか。そしてエゴイズムでは他者の視点に立つことはできないのではないだろうかということだ。エゴイズムという原理に、「理性の公共的な使用」(p.66)を期待できるだろうかということだ。いってみれば、マンデヴィルのエゴイズムの論理は、スミスの道徳感情論を経由して、ロールズにいたるわけだが、この原理がどこまで信用できるものだろうかということだろう。
ハーバーマスがとりあげる第二の問題点は、ロールズの「基本財」の概念にある。これは無知のヴェールの概念を採用したことの論理的な帰結であり、合理的な選択をする主体として検討することのできる規範的なものは、「財によって満たされる利益や価値という概念」(p.68)としてしか現れない。そして「原初状態の当事者自身は、権利を他の財と並ぶ財の一つとしてしか思いえがけない」(ibid.)のである。となると正義や道徳などの規範としての義務が、交換可能な一つの財や価値として表象されることになる。
規範は、すべての人にとって平等に適用される義務を定めるものである。価値の地平におおいては、どのふるまいが適切であるかは、義務としてはではなく、その効果や機能によって判断すべきものである。そして無知のヴェールかぶった主体が選択することのできるのは、この価値の次元のものだけであるが、ロールズは考察の全体として、こうした主体に「平等な主体的な行為の自由を絶対的に優先すること」を求めるのである。
第三の問題点は、無知のヴェールにおいて情報が遮断されたことがもたらす問題である。ヴェールをかぶった人は、選択においてつねにモノローグ的に思考せざるをえなくなるために、各人は自己の私的な判断にしたがうしかなくなる。もしも社会の道徳的な規範が単一であり、確固としたものであれば、情報を遮断しても、主体は社会の規範にしたがって最善の分配をするだろう。しかし多元的な社会においては党派的な思考方法を排除することができない。ヴェールをかぶった主体もつねにイデオロギー的にそまっているのである。すると選択する内容そのものに情報を追加してゆかねばならない。ということは、選択する主体ではなく、選択する主体に選択すべきものを提示する側に、真の主体が存在することになってしまう。
ハーバーマスはこれらの問題点に対して、無知のヴェールをかけるのではなく、開かれた強制のない場での討議によって、意見を積み重ねていくコミュニケーション的な理性の理論を対比させるのは、まあ当然の成り行きだろう。ハーバーマスとロールズの論争はつづくが、ロールズの手続きのモノローグ的な欠陥はきちんと指摘されているというべきだろう。討議的理性は、この点では大きな利点を備えているのはたしかなのだ。それがどこまで説得力と実効性をもつかは、もちろん別の問題だが。
書誌情報と目次
■他者の受容 : 多文化社会の政治理論に関する研究
■ユルゲン・ハーバーマス[著]
■高野昌行訳
■2004.11
■403,35p ; 20cm
■Die Einbeziehung des Anderen.
-道徳的義務の権威はどのように理性的なのか 道徳の認知内容についての系譜論的考察
-政治的リベラリズム 理性の公共的使用による宥和
-政治的リベラリズム 「理性的」対「真」あるいは世界像の道徳
-国民国家に未来はあるか 包括-受容か包囲か?国民、法治国家、民主制の関係
-人権 カントの永遠平和の理念
-人権 民主的法治国家における承認をめぐる闘争
-「協議主義的政治」とはどのようなものか 民主制の三つの規範的モデル
-「協議主義的政治」とはどのようなものか 法治国家と民主制との内的つながり
-『事実性と妥当性』への付論 カードーゾ・ロー・スクールにおけるシンポジウムでの論評への答弁
■4-588-00803-X
■4500円