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『ウィニコット用語辞典』ジャン・エイブラム(誠信書房)

ウィニコット用語辞典

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ウィニコット入門に最適」

「子供は一人ではいない」という有名な(ほとんど自明な)言葉から、幼児の二者関係を重視した精神分析を展開したウィニコットの重要な概念を、著書や論文から詳しく説明した「辞典」。辞典というよりも読むべき書物である。幼児教育の書物はいろいろと邦訳されているが、訳されていない論文も多く、彼の逆説的な思想を理解するのに、とても役立つ。

この書物を読んでいて感じるのは、人がまともに成長するのに、どれほど大きな障害が待ち構えているかということだ。自分がちゃんと育ってきたのが、不思議になる(笑)。たとえば母親が「良すぎる」と、幼児は母親から離れて成長することができなくなるのであり、その母親は「悪い母親」になってしまう。母親が幼児から離れることができないと、幼児も母親から離れることができない。「このようにして母親は、見かけ上は良い母親であることによって、幼児を去勢するよりも悪いことをしている」(p.47)。

これはクライン派の母親像に対する一つのアンチテーゼでもある。「良い母親」と「悪い母親」は、母親だけの問題ではなく、幼児と母親との相互的な関係において考える必要があるからだ。

母親にとっては幼児は「無慈悲」な存在である。幼児は母親を攻撃しながら、そのことを意識もしていない。幼児は母親に自分のすべてをささげるように求めながら、母親を軽蔑した素振りをすることもある。母親はそのような扱いをされながら、幼児を受け入れ、ときには幼児を拒む必要がある。この状態が繰り返されることで、幼児は自己の統合をみいだすことができる。「母親は良いものも悪いものも受け取れるが、何が良いものとして、そして何が悪いものとして差し出されたか分かっていることが求められる。これが最初の贈物である」(p.62)。うーん。

そして幼児は、自己の統合を確立すること、そして自分なり生き方をすることを、最初の道徳的な目標とするのである。「幼児にとっての不道徳性とは自分なりの生き方を犠牲にしてへつらうことである」(p.69)。幼児は母親に迎合することもあり、大人はそれを「成長と見誤る」(ibid.)のである。それは「偽りの、見せかけの自己であり、おそらく誰かの複写である。本当のあるいは本質的な自己と呼べるものは隠され、生き生きとした経験は奪われる」(p.181)。

それにもかかわらず、幼児は迎合することも学ばねばならない。「健康な生活では、本当の自己に迎合的な側面がある。それは幼児が迎合する能力であって、さらされる能力ではない。妥協する能力は一つの達成である」(Ibid.)からである。本当の自己と迎合的な自己の対立と抗争の複雑な関係は、青年期にまでつづくものだ。

こうして成長してきた人間は、自己の存在について確信することができる。幼児は母親との「一体である」と感じることができなければ、存在することの意味を納得できないという。自己という感覚が生じるためには、この一体の経験が実現されていなければならないという。「存在することという意味合いでこのように関係する基盤なくして、いかなる自己の感覚も生じない」(p.243)。どうです、ちゃんと自分が成長してきたのが、不思議に思えてくるでしょう(笑)。

あとラカンの鏡像関係論に相当する「まなざし」論もおもしろい。幼児は母親の顔を鏡のようにして自分をみることを学び、自分が身体をもつ一体的な存在であることを知るという。そして母親の顔の表情から、自分の要求を制御することを知るのである。母親は顔をしかめなければならない。そしてにっこりとほほ笑まなければならない。「もしも母親の顔が無反応ならば、鏡はまなざしを向けるもの(look at)となり、のぞきこむ(look into)ものではなくなってしまう」(p.323)。「ほどよい」母親であることもまた、難しいものだ。

舌圧子ゲームやスクイッグル・ゲームのような言葉がまったく説明なしに出てくるので、最初は戸惑うが、いずれも説明はついているし、フロイト以降の精神分析の重要な思想家の入門書として、お勧めだ。

ウィニコット用語辞典

■ジャン・エイブラム著

■館直彦監訳

誠信書房

■2006.10

■421p ; 22cm

■原タイトル: The language of Winnicott.

■ISBN 4414414229

■定価 5200円

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