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『もうひとつの中世のために--西洋における時間、労働、そして文化』ジャック・ル・ゴフ(白水社)

もうひとつの中世のために--西洋における時間、労働、そして文化

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「労働の時間」

本書は中世学の泰斗であるジャック・ル・ゴフの論文集である。といっても五〇〇ページ近い大冊で、次の四部で構成される。第一部「時間と労働」、第二部「労働と価値体系」、第三部「知識人文化と民衆文化」、第四部「歴史人類学の構築に向けて」。

合計一八章で構成されるそれぞれの部分は、いずれも興味深い議論が展開される。もはや権威者となったル・ゴフであるが、方法論的にも内容的にも次々と新しい提案を示し、権威によりかかることがないのは、さすがである。

ル・ゴフがとくに有名になったきっかけである労働論と時間論は、本書の中心を占めるものだろう。この二つの議論は、とくに利息の問題をめぐって結びついてくるのである。フランシスコ会のある博士は、商人が掛け売りした場合には、現金払いのときよりも高い料金を要求できるかどうかという問いをたてる。そしてそれを否定する。その論拠は、その場合には商人は時間を売っていることになり、自分のものでない時間を売ることは「高利貸し」となるからである(p.50)。

商人は空間的な差異による価格の違いで設けるか、販売と支払いの時期の時間的な差異による利息でもうけるのが常だった。豊作のときに備蓄しておけば、飢饉になってから高い価格で売ることができる。貨幣価値の高いときに購入し、低いときに売却すれば差益をえることができる。そのためには「情報と通信のネットワーク」が必要になる。

この商人の時間に対立するのが「教会の時間」であり、「神にのみ属し、利益の対象とならない時間」(p.51)である。これは大学における教員の報酬という意外な問題につながる。大学で教員が自分の知識を「切り売り」することには強い批判があった。商人が自分のものでない時間を売ることは高利貸しとみなされたが、大学で神のものである学問を教えて収入をえることは、高利貸しと同じ意味をもったからである。

この難問を解決するために導入されたのが「労働」という概念だった。商人は、共同体のために必要な資材を調達し、飢饉のときには必要な食料を提供する。商人は神の時間を奪って自分のものとしているのではなく、共同体の必要性のために「労働」しているのである。「労苦は単に職業の行使だけでなく、それがもたらす果実を正当なものとする」(p.110)のである。さらに商人は仕入れたものが売却できないというリスクを負っている。「偶然に由来する危険」の概念によって、「高利貸しは広く認容されるようになる」(p.112)。

同じく大学の教師たちの報酬は、「彼が学生のために行う労働によって正当化されるようになる。大学人の報酬は彼の知の価額ではなく、労働にたいする賃金なのである」(p.110)。同じプロセスを経て、それまで禁じられていたさまざまな職業の正当化が行われる。娼婦は「香水をつけ、偽りの魅力で惹きつけるために飾り立て」る場合には、客に虚偽のものを販売しているのであり、そこから得た利益を保持することはできない。しかし「肉体を貸し、労働を提供する」者としては、「その労働の対価を受け取るとき、彼女の行動は悪くない」のであり、その利益を保持することができるのである(p.114)。なんともはや(笑)。

第一部は労働と時間というこのテーマをさまざまに展開するが、少し対象が異なるのが第七章の農民論である。著者は古代のラテン文学では農民が重要な人物だったのに、中世に入ると農民の姿が文学から消滅していくことに注目する。その背景にあるのはキリスト教の普及とともに農民の概念に大きな歪みが生じたことにあるとみられる。

まずキリスト教の世界では、労働を蔑視する三つの重要な遺産をうけついでいた。一つは奴隷労働によって生活し、無為(otium)を誇りとする階層によって形成されていたギリシア・ローマの遺産である。第二は軍事的な生活を優先し、必要なものは略奪によってえようとするフランク・ゲルマン的な伝統である。第三は観想的な生を最高の生とみなすユダヤキリスト教の遺産(これはもちろんギリシアの遺産でもある)(pp.151-152)。こうして農民は社会的な意義のないものとみなされるようになるのである。

農民はこの時代には何よりも、パガヌスという「異教徒」として登場する。「中世初期の農民、それはほとんど人とは思えない怪物の再来である。農民は「罪人であり、生まれながらにして悪徳を本性とする人間」である。「淫乱で酒びたり」であり、「性病が罪のしるし」であるような人間なのである(pp.155-156)。そして都市では貧民であり、危険な階層であり、偽の預言者、「民衆の宗教的な指導者とその徒党」(p.159)を輩出する階層である。農民はやがて経済の再生とともに文学にふたたび登場するが、そのときでも「ヴィラン」であり、「軽蔑される存在であり、淫らで、危険で、識字能力をもたない」存在であり、「人よりも獣に近い姿を保持している」(p.160)のである。中世のキリスト教の教会の想像力においては、民衆は異教に近く、野蛮で、危険な存在であり続けた。

この大衆の問題は、キリスト教の根本的な変容と大きなかかわりをもつものだった。第三部の第一二章では、キリスト教が社会に根付くにあたって引き受けざるをえなかった「犠牲」について考察される。四世紀の初頭、ローマ帝国キリスト教が広まった当初は、それを担っていたのは「都市の中・下層の階級」だった。農民大衆と貴族はほとんどその影響を受けていなかった」(p.255)のである。

ところが経済が収縮し、官僚制が発達すると、この層が上昇し、これがキリスト教の「突破」(p.256)をもらたす。しかしキリスト教の勝利が確実になる頃には、この階層はすっかり衰退していた。「貴族、続いて農民大衆という中継者を得て、キリスト教は社会に根付く」。しかしそのときに「数多くの変形」をこうむるという犠牲を払うことになる。「主に農民からなる俗人たちは公認の異教の後退に伴って再生しつつあった原初的な文化の波にさらされることになった」(ibid.)のである。

ミトラなどの異教をキリスト教は退けることができたしても、ゲルマンやフランク族の土着の文化からの影響は退けることができず、これを受け入れ、修正する形でしか、普及することができなかったのである。そしてときには「遮蔽」するためのエネルギーが投じられ、それがキリスト教にさまざまな歪みをもたらすことになった。

この民衆文化とキリスト教の拮抗関係が第三部の主要なテーマとなるのである。とくにマルセルと竜の逸話や、羽衣伝説とも似たメリュジーヌの物語における土俗的な想像力についての考察は興味深い。『黄金伝説』などの聖者伝も、こうした土俗的な想像力の上にしか成立しなかったのである。

第四部では一八章「家臣制の象徴儀礼」が方法論的にも興味深い。著者は文化人類学的な考察をかりながら、封建的に主従関係が成立するときに行われる儀礼について考察し、これが契約関係ではなく、養子取りのような家族的な関係に依拠したものであり、これを考察するには、ローマ法よりもフランク・ゲルマン系の法律を参照する必要があることを強調する。

また叙任権闘争のために、封建制の主従関係が「政治的な参照枠」に基づいているようにみえるが、これは「西洋中世の家臣制のシステムにはまったく無縁であるか、せいぜい副次的な意義しか」もたないという指摘も重要だろう。中世人すらときにこの政治的な枠組み、宗教的に枠組み、家族的な枠組みを混同していたのだった。

この書物はたんに中世のさまざまな問題点についてぼくたちの蒙を開いてくれるというだけでなく、中世の研究、歴史的な研究に精神分析文化人類学、宗教学などのさまざまな学問手法を導入する手続きについても考えさせてくれるという意味でも、貴重なものだろう。

【書誌情報】

■もうひとつの中世のために : 西洋における時間、労働、そして文化

■ジャック・ル・ゴフ[著]

■加納修訳

白水社

■2006.12

■503,10p ; 22cm

■内容細目

第一部

□時間と労働 ミシュレの中世たち

□中世における教会の時間と商人の時間

□一四世紀の「危機」における労働の時間

□九~一二世紀キリスト教世界における三身分社会、王権イデオロギーならびに経済の再生についての覚え書き

□中世西洋における合法的な職業と非合法の職業

□中世初期の価値体系における労働、技術、職人(五~十世紀)

□中世初期文学における農民と農村世界(五~六世紀)

第二部

□労働と価値体系 一五世紀パドヴァにおける大学の諸費用

□中世の聴罪司祭手引書から見た職業

□中世の大学人は己をどのように理解していたか

□中世とルネサンス期における大学と公権力

第三部

□知識人文化と民衆文化 メロヴィング文明における聖職者の文化とフォークロアの伝統

□中世の教会文化と民俗文化-パリの聖マルセルと龍

□中世西洋とインド洋-夢の地平

□中世西洋の文化と集合心理における夢

□母と開拓者としてのメリュジーヌ

第四部

□歴史人類学の構築に向けて 歴史家と日常的人間

□家臣制の象徴儀礼

■ISBN 456002622X

■定価 7800円

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