書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『テクネシスを具体化する―エクリチュールの彼岸の技術』(未邦訳)マーク・ハンセン<br><font size="2">Mark Hansen, 2000, <I>Embodying Technesis: Technology beyond Writing</I>, The Univesity of Michigan Press</font>

0472096621.gif

→紀伊國屋書店で購入

●「技術の哲学」

 いかにして技術=テクノロジーを考えていくことができるか? 本書は、この問いの底知れぬ深遠さを教えてくれる。この探求のためにハンセンが対象とするのが、具体的な技術の事例ではなく、20世紀の哲学者たちの技術をめぐる言説である。ハイデガーデリダフロイトラカンドゥルーズ=ガタリ、そしてベンヤミン。ハンセンは、膨大な哲学的言説を驚くべき強度で分け進んでいく。

 そこでのハンセンの所作は、西洋形而上学に伏在するロゴス中心主義脱構築していくデリダのそれを想起させる。だが、ハンセンはそのデリダすらも俎上に乗せる。彼が照準を合わせるのが、テクネシス(technesis)と呼ぶ、技術を言説に閉じ込め、思考への従属を強いる哲学的戦略である。この戦略において、従来の哲学は技術の「頑健な物質性robust materiality」を削ぎ落としつづけた。しかし、主体や思考に最高位の価値を置く人間中心主義を乗り越えるためにこそ、この技術のもつ物質性を捕捉する必要がある。技術は、思考に対して、表象モデルにはとらえることができない「根源的な外在性radical exteriority」を有している。その方法が、技術に対する理論の抵抗が崩壊する特異点を探りだし、そこから理論の彼岸を現出させるというものなのだ。

 そしてハンセンは、テクネシスの創始者としてアリストテレスから出発し、ハイデガーデリダという現象学の系譜を検討し、機械のメタファーに技術を還元してしまう所作を見出す。さらにこの現象学に比して、より物質へと接近するように思える精神分析の系譜(フロイトラカンドゥルーズ=ガタリ)を検討し、技術の問いへの接近の可能性と失敗の歴史を描いていく。

 しかしハンセンが行なうのは、哲学的言説が技術を捉えることに失敗しつづけてきたのだという発見ではない。もしそれだけの試みであるのであれば、技術の根源的な外在性と彼が呼ぶものを、否定的言明の繰り返しによって語っているだけだという批判を免れないであろう。むしろ、ハンセンが目指すのは技術をめぐる文化理論の「再構築」である。

 彼が強調するのが「具体化embodiment」という局面である。この「具体化」において、表象(常に思考と結びつく)の手前の、技術の物質的現実性との相互作用を考察することが可能になる。それゆえに本書のもうひとつのハイライトは、後半部でなされる「肉体的ミメーシスcorporeal mimesis」の再発見であろう。それは、ベンヤミンのいう「体験Erlebnis」の概念の精錬においてなされる。ベンヤミンがハンセンにとって特権的なのは、言説‐表象主義的な理性の専制を問題とし、具体化された経験の領域の還元不可能性を主張するからである。経験における模倣的な基礎を強調することで、具体化を言語に還元するのではなく、システム論が導入するような「システム/環境」の区別を援用することができる。これによって、言語は、その特権を失い、物質領域との接触の様式の一つとなる。このミメーシスを導き出すのが、「経験Erfahrung」から「体験Erlebnis」へという変化である。「体験Erlebnis」は、ショックの経験があたりまえとなった世界において最も適切な経験の様式となる。それゆえに、ベンヤミンがとりわけ『ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて』で展開した映画の分析が重要となる。映画において、ショックは、機械的刺激への、純粋に生理学的で、感覚的、そして美学的な反応を示すものである。このエッセイにおいて、重要なことはベンヤミンの次の四つの振る舞いである。すなわち、①映画の触覚的次元を強調し、②言説的、弁証法的内容からショックの生理学的次元を切り離そうとし、③イメージの内容から、イメージの模倣的な衝撃の場としてのメディウムに移動し、④経験の自立的、潜在的な力を付与する様式としての体験を肯定することである。以上の四つを原理とすることによって、具体化された経験のレベルに技術の衝撃を位置づけることができ、言説へと具体化の衝撃を崩落させてきたことを押しとどめることが出来るのである。

 このようなハンセンの議論は、従来のメディア論に対して甚大な影響をおよぼさずにはいない。例えば、俗流マクルーハン解釈において、メディアは事後的、機能的に意味を付与される。これは、解釈し意味を付与するという点において、ハンセンが批判するテクネシスの典型に他ならない。だが、その影響はメディア論にとどまらない。たとえば、この議論を経由するならば、さまざまな事象の構築性を論じる議論は、いかに言語外の経験や物質を削ぎ落としているかを自覚せずにはいられないであろう。我々は、技術の物質性を思考や言語へと従属させることに向けられたハンセンの批判を引き受ける必要があるだろう。

 しかし、明晰かつ鋭利な議論の展開ゆえに、その議論は拙速に見えるかもしれない。たとえば、デリダの「差延différance」を、存在論的地位にあると切り捨ててしまうが、デリダ存在論ontologyに対置して憑在論hauntologyを提起することを考慮するならば、その処置は妥当であろうか。デリダの「亡霊性」の概念は彼のいう技術の根源的な外在性に通じていないのか。また、ドゥルーズ=ガタリの議論の検討において、ベルクソンスピノザの緊張関係にある二つの伏流が確認しながらも、後者の勝利においてテクネシスに陥ることをハンセンは示している。しかし、その結論を下すには、ドゥルーズの『Cinema』におけるベルクソンの議論の継承の検討が必要ではないか。

 このような問いにすぐに答えを求めることは、それこそ拙速であろう。なぜなら、このあとに書かれる著作、『New Media for New Philosophy』では、『Cinema』におけるドゥルーズの議論が方法論の中心に置かれ、さらにもう一つの著作『Bodies in Code』では、デリダに近しいスティグレールの議論が参照されるからである。

 なお、本書は、カリフォルニア大学アーヴィン校比較文学コースに提出された博士論文に基づいている。本書は、大陸の思想が、大西洋を越えた土地に蒔かれた種の、豊穣な芽吹きの一つであろう。そして、それがアジアの地で、別の種と邂逅する。その接触において、いかなる新たな果実が産み出され、新たな種が蒔かれるのであろうか。

(新倉貴仁)

・関連文献

Benjamin, Walter, 1939, Über einige Motive bei Baudelaire(=1995,久保哲司訳「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」『ベンヤミン・コレクションⅠ 近代の意味』ちくま学芸文庫)

Hayles, Katharine, 1990, Chaos Bound: Orderly Discourse in Contemporary Lietarature and Science. Itaca: Cornell University Press

Lyotard, Jean-Francois, 1991, The Inhuman: Reflections on Time(=2002,篠原資明他訳『非人間的なもの 時間についての講話』法政大学出版局

・目次

序章.テクノロジーへの抵抗

第一部. テクノロジー、具体化、文化批評

第一章. テクノカルチャーと具体化

第二章. 技術的現実の位置づけ

第二部. テクノロジーの機械への還元

第三章. メタファーから具体化へ―テクネシスへの抵抗

第四章. テクネーの機械的基礎を問う―テクノロジーについてのハイデガー

第五章. 脱構築メカニクス―ド・マンについてのデリダ、あるいはカルチュラル・スタディーズの時代におけるポスト構造主義

 幕間1 プシュケーとメタファー―デリダフロイト

第三部. 技術的現実を追う

第六章. テクノロジーと外的経験―フロイトの科学的心理学プロジェクトの再考

第七章. 思考の彼岸のテクノロジー、あるいはいかにして現実はラカン現実界になるか?

第八章. 存在論的革命の代償とは何か? ドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』におけるアンビヴァレンス

 幕間2 システムと別れる―記号論の彼岸のテクノロジー

第四部. 肉体的ミメーシス

第九章. ベンヤミンにおけるいくつかのモティーフについて―Erlebnis(体験)としての技術の(再)具体化、あるいはミメーシスのポスト言語主義的死後の生


→紀伊國屋書店で購入