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『ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス』平野 嘉彦(みすず書房)

ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス

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「二つの近代」

 ホフマンの「砂男」は、さまざまなトリックが満ちていて、分析するのが楽しみだ。おまけと言ってはなんだが、フロイトの優れた分析があって、ホフマンの側からみても、フロイトの側からみても、分析しがいのある作品だ。

 フロイトがこの作品を分析した「不気味なもの」という文章では、ホフマンのこの小説の粗筋が掲載されている。最初読むと、過不足のない分析のようにみえるが、やがてフロイトが触れなかったものが気になってくる。ホフマンの過剰なまでのメタファーのうちで、フロイトの分析にかかわりがありそうな要素の分析が欠落しているところがみえてくるのだ。

 たとえばフロイトは物語の最後で、主人公ナタナエルが塔の上で狂気に駆られたのは、隣にいた婚約者クララが見ているのと「同じもの」を、すなわち彼が砂男と信じているものをみたからだと断言している。しかし彼が狂うのは、望遠鏡で隣にいる婚約者のクララをみたからなのだ。そしてかつて彼はこの婚約者についてある物語を語っていて、「ナタナエルはクララの眼を覗きこむ。だが、クララの眼をして親しげにこちらをみつめているのは死神だ」(種村季弘訳)という幻想を書き残しているのである。

 これを考えると、望遠鏡でクララを見るという行為にもっと注目してしかるべきだということになる。このことを、江戸川乱歩の作品と合わせて考察したのが、この『ホフマンと乱歩』である。「こんな授業が聞きたかった」という仮想授業というスタイルをとっているために、分析そのものはそれほど深くはない。しかし多くのホフマン論やフロイト論とは異なり、この作品では日本の近代という時代の考察をカプリングしたところが出色である。

 著者はフロイトの分析の欠陥について、この望遠鏡という道具への考察が少ないことを指摘し、これがペニスの形状をしていること、「彼にとってあるべき眼の代理として作用していた」(p.96)ことを指摘する。この望遠鏡で彼は自動人形オリンピアをみて激しい恋に陥るのだが、望遠鏡でみることは、彼に「疑似的に勃起し、リビドーを発動させる」(P.108)ことなのはたしかだろう。

 興味深いのは、日本の小説で登場するのが、双眼鏡だということである。その双眼鏡を逆に覗いた兄は、「押絵」の中の登場人物として現実の世界から姿を消すのだが、この双眼鏡はプリズム双眼鏡で、レンズが少し膨らんで、「異様な形」をしているである。著者はこの異様な道具は「睾丸である」(p.111)と断定する。するとこれは、ペニスがすでに奪われた男性性器、すなわち「去勢された男根」(同)だということになる。

 ナタナエルが手にしているのは、睾丸なしのぺニスであり、老人が手にしているのは、ペニスなしの睾丸である。そこから著者は奇妙な文明批評を展開する。この双眼鏡は老人の兄が西洋の「外国船の船長」の残したものを入手したのであった。だとすると、日本の近代が西洋からうけとったものは、すでに去勢されていたものということになる。「その男根がすでになかば去勢されていたからこそ、ほんとうの〈近代〉は到来すべくもなかった」(p.115)ということになる。

 ホフマンの物語でも、ナタナエルに望遠鏡を与えるのは、イタリアの眼鏡屋コッポラである。フロイトの分析によると、悪しき父親像を代表するこの系列は、ドイツの市民社会の「啓蒙的〈近代〉を破壊する」(p.124)系列という意味をもっていた。これにたいして乱歩の物語では、この父親像の系列は「〈近代〉の視点を与えてくれる」(同)のである(著者は、大きなパイプをつねにくわえていたマッカーサーのことを巧みに暗示する)。しかし主人公は、みえた近代に背を向けて、押絵の「前近代」の世界に退行していくことを選ぶのだという。

 著者はナタナエルの最後の狂気が、「クララが代表する〈近代〉を……つかのま直視してしまったために」(p.124-5)陥ったものだというが、これには異論があるかもしれない。それでもこの近代の道具を使った二つの小説の対比は巧みであり、異論を含めて、さまざまなことを考えさせてくれる好著だと思う。

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