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『唐十郎論 逆襲する言葉と肉体』樋口良澄(未知谷)

唐十郎論 逆襲する言葉と肉体

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「<劇評家の作業日誌>(60)」

 唐十郎について書かれた評論は多い。近年では、扇田昭彦著『唐十郎の劇世界』(右文書院、2008)という決定版がある。唐作品と40年にわたって伴走し、時代を共有した著者による劇評集だ。


 だが唐十郎について書く権利は伴走者にのみ限定されるわけではない。ここに後発者による新たな唐十郎論が刊行された。本書の著者はもともと編集者として出発した。「現代詩手帳」の編集長、河出書房新社、そして現在は岩波書店の編集者として唐十郎の戯曲集や演劇論を何冊も手掛けている。その意味では、唐自身の背中を押すもう一人の伴走者の役割を担っていると言えよう。本書はそうした近傍者による、唐十郎を内から迫った評論である。

 本書の中で唐を「書き続ける人」と評する言葉が出てくる。そのひそみに倣えば、さしづめ著者は唐作品を「観続ける人」、「読み続ける人」と言っていいだろう。舞台、戯曲、演劇論のみならず、小説、エッセイ、ビラなど唐十郎が手がけたあらゆる文章に目を通し、それを解読するにあたって、哲学や都市論、詩に至るまで幅広く参照する。

 その中でとくに注目したいのは、唐の代表的著作『特権的肉体論』を論じた箇所であろう。発端としてサルトルの小説『嘔吐』に遡って言及している。周知のように、サルトルは唐の大学時代の卒論のテーマでもあった。唐の創作の出発点ともいえる「他者性の発見」は、サルトルから獲得したものであるとは、これまで幾度も指摘されてきた。『嘔吐』に出てくる「特権的瞬間」を小説に登場する役者の視点から捉え直している点は、唐が役者の台頭から演劇論を始めていることと符号する。これはこれまで指摘されてこなかった点だろう。それ故、「肉体や『私』を、関係から考えるところから、唐は演劇に向かったとも言える」(44頁)のだ。「私」を根拠づけるのは「肉体」であり、その「肉体」を他者との関係の中で読み解こうとする。

 ここからも分かるように、本書を貫く一本の太い線は「肉体論」である。しかもそれが、68年に刊行された『特権的肉体論』に終始するのではなく、80年代のバブル化された消費空間、そして電脳化された90年代など、それぞれの時代と格闘しながら、肉体のあり方を掘り起こそうとするのだ。肉体に着目する著者のぶれない視点が本書の最大の特徴と言えるだろう。

 例えば、80年代の代表作といわれる『ビニールの城』。ビニ本という当時の風俗のまっただ中で、「ビニール一枚へだてた肉体のふれあい」を読み解き、『ジャガーの眼』では臓器移植の問題を抉り出す。ファミコン・ゲームを扱った『電子城』など、電脳化する社会に唐作品は真っ向から取り組むが、概して苦戦しているのではないか、と著者は判断する。それは生まの肉体が仮想現実的な疑似肉体と交換可能な希薄な時代だからである。

 2000年代になるとどうか。唐の視点が、消費ゲームから次第に変化してきたことに著者は着目する。それは「労働」の現場を描き出したという指摘である。資本主義が高度化し、その行き詰まりを見せ始めた時、切り捨てられた労働現場の周縁と唐が格闘していたことが改めて浮上してくるのだ。2008年にリーマン・ショックはその象徴的な事件だったが、先が見えなくなった時代を透視するように、唐は労働や生活を次々と舞台化していたのである。

 だがそれは、一見すると、かつての下谷万年町を描いた時代とクロスする。2012年1月、蜷川幸雄演出によって『下谷万年町物語』が31年ぶりに再演された。この作品は唐が初めて生まれた町を舞台にした記念碑的な作品だったが、近年の唐組で描かれる民衆の「生活」とは微妙に異なっている。

 ここで唐が着目したのは、「もの」だった。第九章「<もの>の逆襲」は2000年代の唐作品を跡付けていく。

「ものづくりの現場や、<もの>が肉体を使って流通する場所、すなわち、小工場や小さな商店、飲食店、職人や商人の世界である」(160p)。この指摘は鋭い。

 一般にゼロ年代と呼ばれる流行的な演劇とはまるで異なった位相がここでは切り取られている。若者の風俗や喋り方が舞台に引用され、「新しい」と持て囃された時代に、唐の扱う「職人」の世界はなんと地味で、底部を描いた世界であることか。ここには、かつて下谷万年町のような「神話性」はない。だがリーマン・ショック以降の世界市場は、そうした「神話性」を無効化にした。つまり世界は、この底部からの見直し、著者の言葉を借りれば「逆襲」を必要としているのだ。唐はこうした時代が到来するのを待っていたかのように、労働や生産の現場を描き、時代の深部を抉り出したのだ。2000年代に「唐十郎ルネッサンス」(再生)と言われたのは、時代のもっとも本質的な問題に触れたからである。折しも、唐組も創設15年を迎えたあたりから、役者の力量が急速に伸びてきた。舞台の文体もまた変わった。

「唐組では、状況劇場時代のよく用いられた演出、役者同士が観客の方を向いて挑発しながら会話する演出がなくなり、会話は細かく練り上げられていく。テントの舞台空間は、美術から照明まで、桟敷席から見上げる視線に合わせてつくられている。」(156p)

 88年に状況劇場を解散し、ほどなくして唐組を立ち上げる。この「ゼロからの再出発」はバブルから遠く離れ、「唐は結局、自らを追い込み、現場の表現者の道を選んだのである。」(143p)と評価する。

 大きな別れ道である。メジャーへ行く道をあえて選ばず、無名の若者たちと時代の先端部で模索したのだから。こうした過程で、唐は横浜国立大学の教授になり、そこで出会った若者たちが、やがて「唐ゼミ☆」を結成し、唐の初期の作品を上演していく。97年以降のことである。こうした現在に至るまでの道筋にどういう意味があったのかが、本書によって初めて跡付けられたのである。

 それと関連するのは、唐にとっての浅草・上野である。唐の原点とも言えるのは、幼年時代に見た記憶だろう。その意味で、彼が生まれ育った上野・浅草周辺は、彼が描く物語群=サーガなのだ。フォークナーがアメリカ南部を、中上健次紀州を執拗に描いたように、唐もまた上野・浅草への言及は避けて通れない。しかしそれは、決してノスタルジックな神話性に流れるのではなく、リアルな「現在形」として捉えていくところに著者の新鮮なまなざしがある。

 例えば、浅草の芸人ミトキンを論じた箇所で、「浅草は、唐にとってはノスタルジーの対象などではなく、不条理劇など全てここにある、と思わせるほどの『現在』だった。」(58p)と言うのである。ミトキンの芸は当時流行した不条理劇、例えばベケットの『ゴドーを待ちながら』さながらだった。「いずれにせよ、唐は日本の民衆の中にある肉体から考えていく発想、浅草の見世物や芸能から演劇を考えていく発想を、自覚的に自らの世界に取り込んでい」(64頁)ったのだ。

 本書で著者は、「アングラ」や「小劇場」という言葉ではなく、「前衛」を提唱している。だが「アングラ」は、果たして解決済みなのだろうか。ここで著者が「未決」という言葉を用いていることに着目したい。これは1972年から始まるアジアへの遠征にさいして使われた言葉だ。

 唐十郎状況劇場は1972年から74年まで、戒厳令下のソウルをはじめ、バングラデシュ、シリア、パレスチナの難民キャンプを訪れた。これまでこのアジア・ツアーは唐の冒険精神のなせる業という評価だった。だが著者はこれを「アジアの四辺形」をめぐる旅として、「『戦争』を未決のもの、精算されていないもの」(104p)とした戦後日本への課題と真摯に取り組んだものと位置付けた。これはこれまでにない重要な提言だ。これは「アングラ」と言う言葉にも適用できないだろうか。60年代に始まった演劇革命は、いまだ「未決」のまま現在形として投げ出されている。その正統な歴史化が求められているとも言えよう。

 著者は公演に文字通り関わったエピソードを披露している。ここで著者はたった1日の労働に付き合っただけで、「私はその日の夜、疲労で何もできなかった。」(153頁)と述べている。テント公演にまつわる労働は並大抵ではない。テントを建てるのにどれほど神経を使い、危険をともなうことか。こうした一人ではできない「労働」は仲間を必要とし、その達成には集団の結束を必須とする。そこに唐が劇団にこだわり、家族のような小集団をつくり続けてきた根拠がある。それが半世紀近い彼の活動で変わらなかった軸である。それゆえ著者は、唐十郎状況劇場、唐組を一貫した「運動」と捉えるのだ。

 最後に著者は、3・11の体験を語っている。あの日以来、「難民」と化した東北の人たち、それはアジアを経巡った紅テントが出会ったキャンプの人たちと似ていないか。だからこそ、状況劇場は、その場に出かけたのである。その時、テントとは非常事態にもっともふさわしい形態だった。

 今回も被災地の一つである水戸芸術館での公演にさいして、ビラに「お見舞い公演」と書き付けた。それは政治を通さない演劇の唐なりの思いだったろう。紅テントを手放さず、一貫して地面の下からのまなざしを放ち続けてきた唐十郎の演劇魂とそれは見事に合致する。そこに立つ役者体、それこそが「肉体」と呼ばれるものであったのだ。

 副題に「逆襲する言葉と肉体」とあるように、著者の「肉体」を論じる姿勢は現在の暗部を刺し貫いているのである。


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