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『夜になるまえに』レイナルド・アレナス著/安藤哲行訳(国書刊行会)

夜になるまえに

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「めまいと戸惑い、そして冷水」

何かの都合で中断せざるを得なくなった未読の本の山から、この本を引き抜いて読み出したのは、フィデル・カストロ引退のニュースが報じられたことと無関係ではなかった。そして再び読みはじめてみて、あのときに中断した理由のひとつが、カストロの記述にあったことに思い至った。カストロの独裁体制ぶりがこれでもか、これでもかと描かれていることに、あれっと思ったのだ。カストロってそんな人だったのかと。

キューバの作家、レイナルド・アレナスの自伝で、記憶の断章とも言うべき短い回想が時間軸にそって展開される。『夜になるまえに』という忘れがたいタイトルは、それ自体がアレナスの置かれていた立場を物語っている。彼は夜が来る前にこれらの文章を書きつづけた。陽の光のあるうちに、監獄生活というもうひとつの「夜」が来ないうちに、書きつづけなければならなかった。

「六〇年代ほどキューバでセックスが盛んだった時代はないと思う」とアレナスは書く。それを証明するように、本書では最初から最後まで息苦しいほどの同性のセックスシーンが展開される。同性愛に走るのは同性愛者だけではない。ヘテロセクシュアルの人も、男であれ女であれ同性とのセックスに耽溺した。キューバでは同性を愛するのにホモになる必要はなかった。性差による仕切りはなく、欲望だけが強烈だった。

カストロキューバ革命を樹立して政権をとったのは一九五九年。同性愛の高まりはこの革命のエネルギーと呼応しあっていた。

フィデル・カストロに拍手を送りながら革命広場の前をパレードするあの若者たちのほとんどが、ライフルを手に軍人らしい顔をして行進するあの兵士たちのほとんどが、パレードのあとぼくたちの部屋に来て体を丸め、裸になって自分の本当の姿をさらけだした。(中略)二人の男が到達する悦びは一種の陰謀みたいなものだった。暗がりでも真っ昼間でも構わないが、秘密裏になされるものだった。一つの視線、一つの瞬き、一つの仕種、一つの合図、そうしたものがすっかり満足するためのきっかけとなった。その冒険そのものが、たとえ望んだ肉体で絶頂に達しなかったとしても、すでに一つの悦びであり、一つの神秘、一つの驚きだった」

性の解放というとアメリカが中心のように思っていたが、キューバで同じころ同性愛をも含んだよりアナーキーな性的高揚があったのに正直驚いた。革命の熱気はキューバ国内のみならず世界へと波及し、世界中の若者を夢中にさせた。カリブ海のちっぽけな島国がアメリカという大国に盾突いたことは、性的欲望が爆発するほどの生命の高揚だったのだ。

後にアレナスはアメリカに亡命するが、そこでの同性愛の世界にはカテゴリーや区分があって、退屈で飽き足らなかったと書いている。制度化の傾向の強いアメリカでは、性すらもカテゴリー化される。同じ同性愛の行為でも目指すものがちがった。

だが、この異様な性的解放をキューバ政府が黙って放置するはずがなかった。同性愛を取り締まる法律が公布され、同性愛者たちに対する迫害が猛り狂い、強制収容所が造られた。同性愛者である上に作家であるアレナスは二重の桎梏を背負うことになる。反政府的な言動や同性愛が当局からマークされ、逃亡の果てについに投獄される。為政者が私腹をこやそうとする腐敗した体制下であれ、大国と闘って民衆を貧困から解放しようとする理想主義体制であれ、独裁政権であるかぎり、表現者は窮地に追い込まれる。

三年後に「自己批判」して刑務所を出たアレナスは、一九八〇年に船でアメリカに亡命する。このアメリカ滞在について書いたところは、前半の同性愛への記述とともにとても印象深く、考えさせられる。

まず亡命したことで、キューバで逃亡し幽閉されていていた時期よりも海外での出版の機会が減るという矛盾した事態に見舞われる。キューバにいるあいだは、いくら体制から迫害されていようと、輝かしい革命が進行する国の作家だった。アメリカをはじめとして、世界の左翼知識人にとって、カストロ体制への評価はそれほど揺るぎないものだったのだ。だが、亡命作家がカストロ批判をするにつれてキューバ文学は色あせ、大学のブックリストからも外されていく。

「亡命地ではぼくたちは自分を表現してくれる国を持っていない」とアレナスは書く。生きる許可を得られているものの、それはいつ拒否されるとも知れない危ういものだ。どこにも駆け込む場所がない刹那的な実存を生きるしかない。

アレナスは自由を求めて渡ったアメリカでも幸せを得られず、エイズの進行で死を悟り、一九九〇年に自殺している。

「ぼくの新世界は政治力に支配されていなかったが、同じくらい忌まわしいもう一つの力、つまり、金力に支配されていたのだ。何年かこの国でくらしてみて、ここは魂のない国であることがわかった。すべては金次第なのだから」

ここに至って私は大きく溜め息をつかずにいられなかった。まず同性愛を介して広がったエイズのために死を選んだことが痛々しく、また拝金主義のアメリカ批判にも胸に迫るものがあった。というのも、この金次第の資本主義や快楽主義に反旗を翻し、それに抵抗しうる体制を五十年という長きにわたって治めてきたのがカストロだったのではないか。その確固たる姿勢と実践力に、よりよき社会を夢見る世界中の人々が魅了された。だが、その体制維持のために自由を奪われ苦しめられた人間の数は半端ではなかったし、またその彼らは脱出した先のアメリカでも希望を見出せなかったのだ。この事実をどう受け止めたらいいのだろう。

カストロにはどんな大国の政治家の前に出ても動じない存在感があり、その魅力には抗しがたいものがある。だが、彼にとって国民は理想の政治体制を実現するための部品のようなものに過ぎないのだろう。政治とは組織の形成であり、その維持であって、人間はそのためのコマとみなされる。それは政治の宿命であるし、人の中にはなにか大きなものの一部になる悦びがたしかに存在するのだ。と同時に個として声を発したり、欲望を実感する悦びもまた不可欠であり、その両方がなくては人は生きられない。となれば私たちはアレナスの言う「政治力」の国と「金力」の国のあいだでうろうろと彷徨うことしが出来ないのだろうか。

さまざまなラテンアメリカ作家がカストロ体制の操り人形としてやり玉に挙がっている。その中の最重要人物としてガルシア・マルケスの名があるのに驚いた。私はこの発言を判断する手がかりをなに一つ持たないので言うべき言葉はないが、ひとつの価値世界が反転するような眩暈を覚えたのはたしかだった。

実は眩暈を感じたのはここだけでなく、本書を読んでいるあいだずっとくらくらしどおしだったのである。信じるとまではいかないまでも、これまで描いていた価値世界が幻のように消えていくのを感じた。世界がグローバリズムに傾いていく中でキューバ革命は未だ輝きを放っていると思っていたし、キューバを旅してきた友人たちが一様に「貧しくても人々が生き生きしていた」とその魅力を称えるのを聞けば、ますますそう思い込んでいた。きっと旅人にそんな表情を見せる場所なのだろう。だがその国に作家として暮したなら世界はまったく変わってしまう。そのことに冷水を浴びせられたようにぱっと目が開いた。


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