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『かけがえのない人間』上田紀行(講談社現代新書)

かけがえのない人間

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「交換可能な人間から、かけがえのない人間に覚醒するために」

 愛、思いやり、かけがえのなさ、というようなきれい事の言葉を読むのも、聞くのも私は苦手です。
 そのような道徳的、宗教的な言葉など、手垢にまみれている。何を言わんとしているのか、読まずしてわかる、聞くまでもなくわかる、と思ってきました。毒にも薬にもならぬこと、既知の事実などを確認するために書物を読むなどなんと無駄なこと、と考ていたんですね。傲慢きわまりなし。おそれおおいことです。

 しかし、本書を読んで、この考えを改めなければならない。もっと愛について考えていきたい、と思うようになりました。

 愛について考えることが苦手な私を変えてくれた。すごく力のある本です。きっと、社会を斜めからみるように、思考回路をつくりあげてきた私のような人間(大勢いると思います)にとっても、良書としての評価をもたらすのではないかと思います。

 難しいことはひとつも書かれていません。

 

「この本で私が伝えたいこと、それは私たちひとり一人はかけがえのない存在であるということです。

 そして私たちは決して「使い捨て」なんかではないということです」

 冒頭の2行です。これだけではありきたりな表現。ピンと来ませんでした。しかし、読み進めるほどに上田氏は本気で、人間のかけがえのなさを考え抜き、伝えようとしている。静かな熱意がひしひしと迫ってくるのです。

 日本人は、この社会で成長していくうちに、自分のかけがえのなさを忘れて、「交換可能」な存在であると思いこまされてしまった、と上田氏は説きます。神戸の酒薔薇事件の犯行声明文で使われた「透明な存在」という言葉に、当時の子どもたちが共感したことを一例としてあげます。また、小泉純一郎元首相のすすめた構造改革規制緩和のなかで、低所得者層の若者たちが「怒らない」のはなぜかという分析をしていきます。「この社会のなかでは、政治家だろうがフリーターだろうがみんな使い捨てなんだ」ということを小泉がはっきりと若者に伝え、それを納得してしまったからだというのです。

 王様が奴隷に向かって、「おまえは奴隷だ」「その通りです」という合意のある社会ができあがった。上田氏は、このままだと私たちの社会は取り返しのつかないことになる、と警鐘を鳴らすのです。

 日本人の多くの若者たちが、自分自身のことを「使い捨て」「交換可能」「透明な人間」であると思うようになっている。

 この認識を明快に示されたことに、私は軽いショックを受けました。

 私も上田氏と似たような認識で、人々を見ていたからです。

 私は上田氏と違い、人間はどうしようもない、という悲観的な立場になびいてしまう。この悲観的な世界観を基盤にして、行動や発言をしてしまう。これでは、自分でいうのもなんですが、面白くないし、結果も出ません。

 上田氏は、愛によって社会と人間を変革することができると信じて行動していく。発想がソーシャルベンチャーそのものなんです。

 上田氏が、人間のかけがえのなさを大切にする思想的立場に至るまでには、何度も人生の「穴ぼこ」に落ちては、はい上がってきた経験がありました。

 上田氏は、小説家志望の父と、演劇の演出家の卵である母との間に生まれました。放蕩生活をしていた父は、上田氏が生まれてまもなく失踪してしまうのです。残された母は、ひとり息子を育てるために、演劇を道を諦めて会社員、そして翻訳家に。上田氏は思春期を迎えます。

「とりわけ私と母にとって悲劇的だったのは、私が父親似だということでした。成長するにしたがって、私はあの父の容貌に近づいていきます。かわいい息子だったはずなのに、自分の前にあの忌まわしい男が立っている! 母は私の中に、あのどうしようもない父親の姿を見るようになったのです」

 そして母は上田氏にこう言うようになります。

「あなたの中にはあの父親の邪悪な血が半分流れている。だからその血が目覚めないように、気をつけないといけない」

 母と息子の葛藤、愛憎、衝突。父に捨てられた母は、たくましくも過剰な人でした。ひとりではこなしきない量の仕事を、徹夜でこなすバイタリティ。上田氏との壮絶な親子げんかのあとに、「家族解散宣言」をして日本を出て、6年のニューヨーク生活を送る。70歳の翻訳業引退イベントとして、友人を集めたダンスパーティを開催する。

 人生に迷い自信のなかった20代の上田氏は、この過剰なエネルギーを放出する母を、「うっとうしかった」と書きます。

 いま上田氏は3歳の娘の父です。まさに小説家志望の父が、自分を捨てた年齢です。人生は巡る。過去が現在として出現したと気づいた上田氏は、母の怒りと悲しみの深さを知るのでした。なぜ、夫は自分と息子を捨てたのか。その悲嘆と向き合うために、ひとりの女性は過剰な生を選び取るしかなかったのでしょう、と深い理解にたどり着きます。

 交換不可能な、かけがえのない人間は、苦楽をともにする生活のなかで育つのです。

 奴隷的な状況に納得することなく、怒りをもって、生きることを勧める良書です。

 まだ3月なのですが、ひょっとしたら今年ベストワンの新書かもしれません。

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