『近頃の若者はなぜダメなのか―携帯世代と「新村社会」』原田曜平(光文社新書)
「〈若者論〉自体を問い直すきっかけに」
新刊を見つけても、評価がある程度定まってからでなければ触手が伸びないジャンルが二つある。若者がいかに変わったか、さらにはいかにだめになったかを論じる「若者論」と、メディアやメディア産業の将来を予測する「メディア未来論」である。
まず「メディア未来論」についていえば、「新しいメディアで人間や社会がこう変わる」などという技術決定論は(好きではないが)まだましで、「○○が消える日」「○○がなくなる日」といったタイトルの類書が多すぎることに違和感を抱いている。
確かに、新聞であれテレビであれ、既存のメディアが衰退することは大きな社会的インパクトを持つものであり、それを論じることにはニーズも大きいだろう。また、こういった売り方自体は好みの問題でもあり、そういったタイトルのものを好んで読んでいる人もいるのだろう。
しかし、いくつかの意味でそこには看過できないものがある。「ソシオメディア論」という考え方によれば、ある新しいメディアが登場しても、それがそのまま古いメディアに取ってかわるわけではなく、複数のメディアが重層的に存在していく。電子メールが普及したからこそ、手書きの手紙がより特別な意味を持つようになったように。そういった複雑な構造を丁寧に追おうとせず、「消える」「なくなる」とか、あるいはその新たなメディアが万能であるかのように吹聴するのは、メディアと社会の関係を単純化しすぎている。
もう一つには、こうした言説こそがそういった結果に加担してきたのではいかということだ。これは「メディア未来論」だけではなく「若者論」にもいえることだが、危機感を煽ること自体が、その対象が危機にあるということを争点として読者に提示し、結果的に衰退の方向へ導いてしまう「予言の自己成就」的な性格を持っている。それを自覚したうえで確信犯的に振舞っているのならば放っておくほかないが、自分が発した言説自体がファクターとなり、その対象を巻き込み変容させていく。このことをどうとらえながら対象を論じるのか、評論家であれ学者であれ、この点に無自覚であってはいけないだろう。
このように「若者論」と「メディア未来論」は消費される(つまり、上っ面だけがなぞられてすぐに忘却されてしまう)言説としての側面を持つが、この両者はまた不可分に結びついている。つまり、論じられる対象が新しいものに更新されるだけで、「メディアによって若者がどう変わったのか」という問題設定が繰り返し行われているのである。
もちろん、学術書では「若者論」自体を相対的にとらえなおすものもある(羽渕一代編『どこか〈問題化〉される若者たち』恒星社厚生閣など)。しかし、本書についていえば、評者は完全に上述した傾向のものの一つだろうという先入観を持っていた。しかし、その先入観はいい意味で裏切られた。本書は、前述したような「若者論」ブームに便乗しつつも、したたかにそれを相対化してみせようとする傾向を備えたものだったのである。その意味で、本書は正確には『なぜ「近頃の若者はダメ」といわれるのか』と題するべきなのだろうが、あえてそうしなかったのは「若者論」を期待する読者を鮮やかに裏切るための装置なのかもしれない。そうすると、評者はまんまとその装置にはまったわけだ。
第1章から第5章では、「イマドキ」の若者の生態が描かれている。渋谷などでの聞き取りをもとにして、その「驚くべき生態」を記述するというスタイルは多くの「若者論」と共通するものだが、統計調査をもとにした記述には興味深いものがある。「世代別のケータイサービス利用率」では、報道で問題となっている「学校裏サイト」の利用率が極めて低いことをはじめ、「有害サイト」の利用率が低いという。それよりも、ブログやSNSなど「現在の人間関係を維持する」「新しい人間との出会いを広げる」ツールとして頻繁に利用されているというのである。
さて第6章、第7章に本書のユニークネスがある。第6章「つながりに目覚めた若者ネットワーカー」では、調査から浮かび上がってくる若者の肯定的な側面を挙げる。著者が「新村社会の勝ち組」と呼ぶネットワーキングに長けた若者の存在である。第7章「近頃の若者をなぜダメだと思ってしまうのか?」は、冒頭で触れたような「若者論」自体に批判的なまなざしを向ける。著者はこう締めくくっている。
「ニュースをつければ、挙げればキリがないほど、若者をテーマにした社会問題や事件が湧いては消えています。しかし、私は、昨今のこういったある種の『若者ブーム』に強い危機感を感じています。多くの言論が『若者を批判する』か『大人や社会を批判する』か、どちらかの立場に立っているものばかりだからです」
著者は、「若者論」がはらむ問題として「二項対立構造への麻痺」を指摘する。皮肉にも著者自身が「勝ち組/負け組」という図式を使ってしまっていることが示唆するように、「若者論」に限らず(冒頭の「メディア未来論」も然り)現代に生きる日本人の認識枠組みのなかに、二項対立構造は深く染み込んでいる。