書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『その日東京駅五時二十五分発』西川美和(新潮社)

その日東京駅五時二十五分発

→紀伊國屋書店で購入

「19歳の”されこうべ”」

広島に暮らす飛行機好きの「ぼく」は19歳で召集され大阪の陸軍通信隊に配属される。数日後には東京の通信隊本部へ転属となり、無線送受信の練習中にアメリカの短波放送を受信してポツダム宣言の内容を聞いてしまった。日本語訳がラジオで流れた前日のこと。8月11日には中尉から所属する隊の撤収を告げられ「我々は、機密書類や通信機材の一切合財を、焼却し、あまさず処分しなければならない」と、着る服を残したすべてを全員で焼き尽くす。2カ月前に降りたばかりの東京駅へ。日付変わって8月15日。仮眠中に憲兵がやってきた。身分を証明するものが何一つない。一緒の隊だった笹岡と一世一代の大芝居。5時25分発の東海道線で、9日前に「新型爆弾」で丸ごと吹っ飛ばされたとラジオで聞いた広島に向かう。ただ一発の銃弾を打つこともなく、耐えられないほどの辛く厳しい訓練も空腹もないまま、玉音放送を聞く前に撤収と告げられ戻った故郷で、〈この街が目撃したというそのおそろしい光を、ぼくは知ら〉ず、〈すでに全くの門外漢〉となった自分を知る。

     ※

著者は映画作品『ゆれる』『ディア・ドクター』『夢売るふたり』などがある脚本家で監督の西川美和さん。執筆のきっかけは、1945年春に召集されて陸軍の特種情報部の傘下で通信兵として訓練を受けた伯父の体験にある。伯父の手記には感情的感傷的な言葉はほとんどなかったそうで、改めて話を聞きに行っても劇的な表現で語られることはなかったそうである。本書の語り口も軽やかだ。

〈全てに乗りそびれてしまった少年〉である「ぼく」は、自ら望んだり画策したことがひとつもないからこだわりがない。子どものころ、尊大で癇癪もちの祖父の顔にぼんやり笑ったような「されこうべ」をみつけた逸話が冒頭にある。されこうべの上を覆う張りつめた表皮に祖父の哀れを感じて以来、理不尽なものに出会うたびにされこうべを透視して、やり過ごしてきたのだろう。理不尽だらけの時代だというのに、だから「ぼく」の記憶の中には〈えも言われぬ恐怖を人心にもたらす〉ひとが出てこない。されこうべがまだ見えなかった時代の祖父以外は。



「ぼく」が唯一見ることのできないされこうべは自分自身のものだという。この物語が、「ぼく」のされこうべそのものに思えてきた。頭の上をぶんぶんぶんぶん敵機が飛んでそこかしこの戦火におびえながらも、飛行機好きの「ぼく」はすぐれた飛行機としての零戦をすごいと思い、B-29の翼は美しいと思う。国家も民族も関心はない、ひっそり自分の生活を守っていられればよかっただけなのに、召集されて訓練で持った九九式は実際に撃ってみたくなったし、無線もやってみたら面白い。益岡というおかしなやつとも友達になれたし、とにかく上官にぶたれるのはいやだからそれだけに必死で過ごした。自分が国を愛しているのかどうか、国が負けるとはどういうことか、自分には何もわからない、わからないから怖くない。でも、赤く燃えた空を見るのは辛い。生きたまま根こそぎ土ごと焼かれていくのを見るのはとてつもなくたまらない。それとこれと、なにがどう関係しているというのだ……。心当たりのある19歳のされこうべがそこにある。他の誰とも大差のない、なにごとかで覆う以前の。

     ※

広島に生まれ育った西川さんは小さいころから戦争や原爆の悲惨な情景や体験を聞かされて、知っておかねばならないと分かっていても、〈そんな話ばっかし。頭が割れるほどいやだった〉と「あとがき」に書く。強烈すぎるできごとはその下にある無尽の些末を黙らせて、また無尽の些末をつかもうとする指先を拒む。戦争は「ぼく」の祖父のように、西川さんの前にあったのだろうか。そんなことを考えていて頭に浮かんだことがある。



日記が宿題だった小学生のころのこと。先生が短い感想を書いてくれるのがうれしかった。夏の日、両親が友人と戦時中の話をしているのを聞いて「楽しそうだった」と書いた。畑のものを盗んだ武勇伝みたいなものだったと思う。午後戻って来たノートには、戦時中苦労したおとなをそういうふうにみてはいけない、あなたがそんなふうに感じるなんて先生残念、と書いてあった。ショックだった。戦争に関わる話をするときには、まずもってその悲惨に胸を痛めねばならないと知った。確かにそうだ。でもそれだけではこうして「ぼく」に会うことはできなかっただろうし、自分自身の19歳と戦時下の19歳に同じされこうべを見ることもできなかっただろうと思う。「ぼく」に会えてよかった。


→紀伊國屋書店で購入