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『民俗学とは何か―柳田・折口・渋沢に学び直す』新谷 尚紀(吉川弘文館)

民俗学とは何か―柳田・折口・渋沢に学び直す

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柳田国男による新しい歴史学

 本書は民俗学の素晴らしい解説書である。評者は長年にわたり、民俗学周辺の著作を食い散らかしながら、民俗学とは何か、はっきりと分からないままできた。民俗学文化人類学民族学とはどう違うのか、歴史学との関係はどう考えるのか、柳田国男折口信夫、また渋沢敬三宮本常一、その後に出てくる宮田登氏や福田アジオ氏ら、数多の民俗学者はどういう関係にあるのか。本書を読むことで長らくの疑問が氷解し、満足感で一杯になった。著者の新谷尚紀氏に、深く感謝したい気持ちである。


 著者は語る。──日本民俗学フォークロア(民間伝承学)でもないし、文化人類学でもない。柳田は昭和10(1935)年8月、民俗学の研究組織として「民間伝承の会」を創設し、学会誌として『民間伝承』を発刊した。この命名がとても紛らわしいのだが、民俗学は伝説や昔話の研究を行う学問というわけではない。柳田は民間伝承の研究によって、国史の中で跡をとどめることのなかった、名もなき民の姿を復原し、歴史の中に位置づけ、今日の生活に対する反省と、未来への判断のよりどころとすることを願い、新たな学問を作り出した。

 つまりこれは、文化人類学ではなく、歴史学である。狭義の歴史学はいわゆる文献史学であるが、そのアンチテーゼとして現れたのが柳田国男民俗学であった。遺物資料を扱う考古学、民俗資料を用いる民俗学、そして文献史学、この三者が連携協業して開拓し、再構成していく歴史学が広義の歴史学となる。柳田による新しい歴史学、それは民俗を歴史資料として読む解く生活文化の変遷論であり伝承論である。列島規模での比較研究に基づき見えてくる地域差・階層差・時差をとらえる立体的な歴史学であり、さらに「ハレとケ」「常世とまれびと」等の分析概念を抽出する学問世界は、社会学文化人類学にも通じあう世界となった。──実に、明解である。

 本書には具体的なエピソードも豊富である。──柳田国男は、民俗学を「象牙の塔」である大学の中に閉じ込めるのでなく、国民が広く研究に参画でき、広く共有された学問知識となっていくことを願い、あえて「民間伝承」と名乗った。しかし、他の学問との交流を行うにしても、科学研究費の申請にしても、「民間伝承の会」という名前では不都合である。「日本民俗学」への名称変更は避けらない事態となった。だが、畏れ多くて誰も柳田に言い出せない。女婿の堀一郎も説得できない中、期待に応えざるを得なかったのが折口信夫であった。

 昭和24(1949)年3月、折口は柳田の肖像画を届けに訪れ、談笑後、おもむろに名称変更のことを懇願した。それを聞いた柳田は烈火の如く怒り、テーブルにあった本を叩きつけ、「折口君、僕がどんな思いでこの民間伝承の会を作ってきたか、君なんかに分かってたまるか」と語気鋭く迫った。誰も見たことのない恐ろしい顔だった。折口は間をおいて静かな低い声で「一番よく分かっております。誰よりも一番よく分かっておりまます」と心にしみる返事をした。柳田は憮然としてその場を立ち去ったが、これは儀式であった。その後、別室の柳田はニコニコしながら「折口君はもう帰りましたか」と語ったという。柳田と折口には誰も入っていけない深い信頼と師弟の愛情友情があった。

 

 柳田国男折口信夫のことを大変高く評価していた。柳田が73歳のとき、折口と自分との「智恵の開きの二十何年の差は情けない」「最初から信用しきつて居た方がよかつたと、思ひ当ることが毎度あつた」と語っている。柳田は折口のことを常に厳しく批判したが、それは折口の方法では一般の研究者には真似ができない、学習できない、という点につきたからだ。折口の文献や民俗への着眼と分析、立論は正確であったが、とても一般の人間にはできない、民俗学の後継者が育たない、巨大な国史学に立ち向かうためには、質的にも量的にも豊富な事例蒐集と、その帰納論的な分析の手続きが不可欠であった。聡明な折口はそのことを十分に承知し、柳田の独創性に啓発され、学恩への深い感謝の念を抱いていたという。──なるほど。

 著者は、日本民俗学は柳田と折口という二人の巨人を軸として誕生した学問である、と捉える。それを背後から協力し、経済的にも支援したのが渋沢敬三であった。渋沢は大正15(1925)年、私的な研究所「アチック・ミュージアム」を設立し、民具類の資料の蒐集整理と水産史の研究に着手した。アチック・ミュージアムは、いくつかの変遷の後、現在は神奈川大学常民文化研究所として運営されているが、渋沢は自身の研究の一方、多くの有能な人材への支援を積極的に行っていた。

 その中でも、とりわけ有名な民俗学者が「旅する巨人」宮本常一だろう。渋沢は宮本の不安定な生活と世俗の誘惑に乗りやすい人生のほとんどを大きく支え、守り育てた。渋沢は宮本に「君を軟禁する。私の許可なしに旅もしてはいけないし、他からの仕事も引き受けてはならない」「私は君の防波堤だ。君は防波堤がなければすぐにこわれてしまう」と諭したという。そして「どのようなことがあっても命を大切にして戦後まで生きのびてほしい。敗戦ともなってきっと大きな混乱がおこるだろう。そのとき今日まで保たれてきた文化と秩序がどうなっていくかわからぬ。だが君が健全であれば戦前見聞したものを戦後へつなぐ一つのパイプにもなろう」という言葉を残した。──その通りとなった。

 著者は、現代日本の民俗学がもっとも取り組む必要のある課題の一つは、およそ1955年から1975年にかけて起こった日本の高度経済成長と、それによる生活の大変化に関する研究であり、それを同時代的に追跡し分析していくことにある、という。評者は深く共感する。柳田国男が昭和4(1929)年から5年にかけて『明治大正史世相編』に取り組んだ意図や、そもそも民俗学を創設した意図にも通じるものだろう。

 その実践例として1997年から98年にわたって行われた共同調査『死・葬送・葬制資料集成』や、2007年度から2009年にかけて実施された国立歴史民俗博物館の「高度経済成長と生活変化」が挙げられている。この課題への取り組みは途上にあろのだろうが、やはりこれでは物足りない感がする。毎年3万人を超える自殺者を生むような不安な社会がどうして生まれたのか、社会経済要因やメンタリティにも深く踏み込んだ学問研究を望みたい。都市生活やサブカルチャー研究の成果への参照も必要になるのではないだろうか。過剰な要求かもしれないが、本書を読んで、民俗学の今後の活動に大いに期待したくなったゆえである。

(カタロギングサービス部 佐藤高廣)


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