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『大学論――いかに教え、いかに学ぶか』大塚英志(講談社現代新書)

大学論――いかに教え、いかに学ぶか

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 仕事柄なるべく目を通しておいたほうが良い類の本があって、大学や出版や電子書籍といったテーマの本は、どうしても手にとってしまいがちだ。で、今回はまさにその名の通りの『大学論』。大塚英志氏が神戸の大学でまんがを教えていることは知っていたが、オビの煽り文句が「大学全入時代だからこそ改めて問う体験的エッセイ/いま、大学でいかに学ぶのか」。なんとなく大学という制度の問題とかかくあるべき姿とかが書かれているのかと思って読み始めたら、止まらなくなった。


 もちろん、冒頭の体験的エピソードの直後には、たとえばこんな件が出てくる。

 さて、大学生や大学をめぐっては「学力低下」で今の大学生は九九さえできない的な言い方が大学の教師の側からされて久しい。そういう人たちはたいてい戦前の旧制高校的な「教養」を「教養」の定義としているのだが、「まんがを教える大学」の登場はそういう人たちからすれば末期的現象なのかもしれない。

なかほど、「下流大学論」なる節では、

 例えば九〇年代のどこか、ぼくがまだ「論壇」に身を置いていた頃、『世界』でその種のテーマの座談会に出てキレた記憶がある。(中略)出席した大学の先生たちは大学生の教養のなさを憂え嘆きつつ、暗に自分たちの頭の良さを自賛しているような感じがして、そこがみっともないと思った

と、ほんとうの問題は大学生ではなく教員の質のほうにあるのではないか、との主張がなされもする。文科省の浅薄で行き当たりばったりな政策への強い反発も、あちこちで目につく。

 でも、本書の大部分はそういうよくある教養論や制度批判の枠組みを大きくはみ出た体験的エピソードの数々で、「まんがを教える大学」が実際に学生たちに何をいかに教えているのか、学生たちはその教えをいかに四苦八苦して学んでいくのか、が克明に綴られていく。

 印象に残る場面は多々あるが、例えば、「二年の後期、映画撮影の実習が半強制的に課せられる」「まんが構成論」の授業。手塚治虫がまんがの近代化を夢見て持ち込んだ「映画的手法」を体系立てたとされる石森章太郎の、『竜神沼』という小品を「逐語訳的」に映画化するのが課題だ。

 まんがの一コマ一コマが映画の一カットというルールで、石森が意図としてこめただろうカメラワークやカットつなぎといった映画的演出を、学生たちは追体験していく。

 そして学生のうち何人かは実のところ少しだけ気づいてはいるのである。「実習」だからカットごとに監督役は変わるのだが、それを編集すると一連なりの映画になる。それを不思議がる者がいる。「映画」はあるのにそこには本当の意味での「監督」は不在だからだ。

 しかし、それではこの映画の監督は誰なのか。絵コンテが石森作品の逐語訳である以上、答えは明らかだ。

 ぼくたちはロケ現場どころかこの世にいない石森章太郎の「監督作品」を作ったのである。

 あるいは、三年生夏休みの「合作」の授業。監督、脚本、絵コンテ、レイアウト、作画、背景といった担当に分かれて、一編のまんが作品が合作される。「大学の課題としてまんがを描」いてきた二年半が終わり、「「プロとしての作品づくり」へのギアチェンジ」がこんなふうに強要されていく。

 今度はシナリオを絵コンテ担当の学生に振る。絵コンテにいつも手間取る学生を敢えて選んである。つまり、どの役割もその学生の長所ではなく短所に応じて振っているのである。(中略)ようやく絵コンテが完成すると、同じようにメルアドと新幹線代が渡される。

 大幅な直しを命じられ、ぐだぐだになって戻ってくる。

シナリオ、絵コンテ、レイアウトと出来上がったものはその都度、担当学生が単独でわざわざ関西から上京し、本物の出版社の本物の編集者から直接チェックを受けるわけだ。

 次に絵コンテはレイアウト担当に回る。作画用の構図の決定とシナリオの微修正である。

 しかし困ったことに絵コンテでOKの出た演出にこの時点で大幅な「修正」が命じられる。(中略)

 だから学生の中には、リテイクの内容そのものに疑問を持ち出す者もいる。しかし、それでも編集者の言う通り「直す」必要が新人にはある。その理不尽さの経験は今回の裏メニューのようなものだ。

なんとも周到なカリキュラムだと思う。

 学生たちは、こんなふうに次々繰り出される「ムチャ振り」なカリキュラムを時に精根尽き果てながらこなしていき、いつのまにかプロデビューに手が届く水準に、腕前においても気構えにおいても達していく。(感動的な場面もいくつか出てくるのですが、その辺はぜひ実際に読んでみてください。)

 本書には伏流として、大塚氏の大学の恩師・千葉徳爾およびそのまた恩師である柳田國男の話が何度も出てくる。大塚氏自身の大学での専攻はもちろんまんがではなく、民俗学だ。自分は民俗学の研究者にならなかったわけだが、恩師から学んだものは大きいという。

 柳田から千葉が受け継いだ「方法」が、歴史の微細な変節点から歴史を観ていくぼくの批評の方法の基本になっていることは既に書いたが、それ以外にも民俗学はぼくの仕事の全てのベースにある。

 大塚氏は知識でも技術でもない「方法」を教えようと、まんがを教えるカリキュラムを一から創っていく。彼にとってその作業はこのうえない楽しみであり、二代にわたる恩師たちがそれぞれの学問を作り上げていく姿に重なるものだ。「教えることで学ぶということ」を千葉から学んだという彼は、「ぼくの学生たちもまたぼくの「弟子」などではないと」自分を戒めつつも、教え子のなかから次世代の教師が生まれることを夢見ている、というか確信している。

 「先生とわたし」であれ「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」であれ、あるいは「エ-スをねらえ!」であれ、やはり師弟モノは面白い。「教えること」「学ぶこと」は、大学とか教養といった狭い世界を超えて、人間の本性に根差したものなんだと改めて思う。

 数年前に大学の正規カリキュラムで「読書」という授業が設けられ一部で話題になったが、読書を教えたり学んだりする「方法」について、出版不況や活字離れが叫ばれてこの方なにか目覚ましい進歩があっただろうかと、すこし反省もこめて思ってみたりした。

(販売促進部 今井太郎)


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