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『火を熾す』ジャック・ロンドン(柴田元幸訳)(スイッチ・パブリッシング)

火を熾す

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「犬がついてくる、狼がついてくる」

 ジャック・ロンドンといえば『白い牙』。だが、そのストーリーは何にも覚えていない。中学生のころに翻訳の文庫本で読み、それから手にとったことがなかった。狼犬の話だった、たしか。アラスカが舞台だった、たしか。それ以上のことはまるで思い出せない。

 ところが柴田元幸によって編まれたこのロンドン短編集の冒頭の一編を読み、めったにないくらいの高揚感に包まれたのは、そんな「忘れられた読書」の土壌のせいにちがいない。かつてわくわくしながら読んだ『白い牙』を、いわば地面の下の永久凍土として、その上に訪れた季節の変化が心をかきたてるように、「火を熾す」の世界は息を飲む強烈さで襲いかかってきた。

 収められた9編を通読すると、ロンドンの世界の広がりが実感される。中学生のころはこの「ロンドン」という苗字があのかつての大英帝国の首都を思わせて不思議で仕方なかったが(これって「江戸さん」みたいなものかな、とそのころ思ったのを覚えている。ついでにいえばチャーチルは「寺岡さん」か、とか)あの都市のロンドン自体がまさに「世界都市」と呼ぶにふさわしく、世界各地と遠近法を無視したさまざまな物流や人間的ネットワークでむすばれているのとおなじく、この人間のロンドン(ただしサンフランシスコ生まれ、アメリカ西海岸人)の個人的な宇宙も、ずいぶん遠いいろいろな土地によって織りなされているようだ。

 アラスカ、メキシコ、ハワイ、オーストラリア。そしてくりかえし語られる主題としては、生存、ボクシング、海、犬や狼やコヨーテ、荒野、生存、生存、生存。そう、「生き延びることを語ること」へのこの執着ぶりは、単に作品世界にとどまらず、作家ロンドン自身がいかに生きることに真剣で、またそれに苦労し、その賭けに一日ごとに勝ってきたかを、よく物語っているように思う。

 9編はいずれもおもしろく読めた。ボクシング物といっていい「メキシコ人」「一枚のステーキ」は心に残るし、短く結構が整った「戦争」は鮮やかな短篇映画のようだ。「影と閃光」および「世界が若かったとき」はある種のSF趣味に立つ興味深い作品で、「水の子」「生の掟」はそれぞれ南の海と北の大地を舞台にした部族的な感覚にふれている。「生への執着」は、みごとに生き延びた者の冒険譚。そしてまぎれもない本書の最高傑作である冒頭の「火を熾す」は、読んでいるだけで体が爪先まで凍てつき、感覚が鈍り、意識が飛ぶ。危機感が少しずつエスカレートして、神話的次元に迷いこんでゆく。

 犬がついてくる、どこまでも、いつまでも。かといって、なついているわけではなく、かといって、襲ってくることもない。犬と男は、ある単純きわまりない関係でむすばれている。それは、互いに相手にとっての熱源だということ。たとえば以下のような数行が、ぼくにはすばらしくおもしろい。

「犬の姿を見て、途方もない考えが浮かんだ。吹雪に閉じ込められた男が、仔牛を殺して死体のなかにもぐり込んで助かったという話を男は覚えていた。自分も犬を殺して、麻痺がひくまでその暖かい体に両手をうずめていればいい。そうすればまた火が熾せる。男は犬に話しかけ、こっちへ来いと呼び寄せた。だがその声には奇妙な恐怖の響きが混じっていて、それが犬を怯えさせた。男がそんなふうに喋るのを犬は一度も聞いたことがなかった。何かがおかしい。犬の疑り深い本性が、危険を察知した。どんな危険かはわからなかったが、とにかく脳のどこかに、どうやってか、男に対する不安が湧き上がった。男の声に犬の耳はべったり垂れ、そのせわしない、背の丸まった動きと、前足を持ち上げては重心をずらすしぐさがいっそう大きくなったが、犬は男の元に行こうとしなかった」(27ページ)

 わかるなあ、この動き。犬の心模様。ジャックがおなかにいるとき母親が拳銃自殺を図り、生まれてからは元奴隷の黒人女性に育てられ、やがて母親が結婚した相手の男の姓(これがロンドン)を名乗り、図書館に通いつめる独学者として成長し、ゴールドラッシュに乗ってアラスカに金を探しにゆき、オイスター・パイレート(牡蠣海賊、とは牡蠣密漁者のこと)になったり、ホーボー(鉄道放浪者)になったり、ともかくひたすら生存めざして戦ううちに大変な流行作家として成功をおさめるにいたった彼だが、はたしてこのような犬に対する観察眼と想像力は、どうやって身につけたのだろう。かわいがっている飼い犬はいたのだろうか。あるいは犬の話はともかく、こんな危険な酷寒を、作者は実際に体験したのだろうか。

 たとえばそのような、作品にとっては雑音みたいな作者の生涯に関する疑問が湧き上がってくることも含めて、じつに魅力的な作品集だ。柴田元幸の訳文の安定した筆力には、ただ脱帽。


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