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『蟻族――高学歴ワーキングプアたちの群れ』廉思【著】 関根謙【監訳】(勉誠出版)

蟻族――高学歴ワーキングプアたちの群れ →紀伊國屋書店で購入

「就職難に直面した中国の地方出身大卒者」

日本で話題になる「高学歴ワーキングプア」は、大学院卒のことである。特に、博士課程修了者や博士号取得者で仕事のない人々のことを指すだろう。

中国の大学院生も、特に文系出身者は、(まだ日本ほど顕在化していないが)同じようなキャリアの不透明さに悩まされている。しかしこの本はそれ以前の、大卒者の苦労を描いたものであり、大学卒業資格の価値下落の結果を書いたものである。

本書が出版されたのは、評者が北京に滞在していた2009年のことであり、当時の中国で大変話題になっていたことを思い出す。英語圏と国内の学会誌のみを見ている大学・研究者の世界というより、広く読書界で話題を呼んだ。

地方から大学進学のため出てきたものの、低賃金の仕事しか見つからなかった、または仕事が見つからなかったなど、折からの就職難の中で望ましい就職のできなかった若者が大量に生まれている。そして北京など大都市の周辺部、農村との境界にあたる部分に、彼らの集住する地域が形成されている。
著者らはこうした、都市に滞留する地方の大卒者たちの群れを、知能が高い群棲動物であるアリになぞらえて「蟻族」と名付け、その生態を調査してまとめたのが本書である。

著者たちの主な目的は、こうした大卒の低賃金労働者の出現を、社会問題として認知させることにある。
学術界で「出稼ぎ農民、リストラ労働者、農民」は三大弱者集団とされ、政策的にも対策が議論されている。「大卒低所得群居集団」は、今のところ大きな問題とはされていない。しかし彼らも、社会における不満分子なのであり、放置すれば動乱などの要因として体制不安定要因になりえる、という形で問題提起を行っている。
「これらの『エリート候補生』が社会に参与できない、或いは行き場を失ってしまえば、若く繊細な心やゼロに等しい自活力が経済危機の下に晒されてしまうことになり、必ずや中国社会の調和と安定にとって潜在的な脅威となるだろう」(21)。
「社会がこの問題は解決しなければならないことだと認識したとき、我々は使命を終えるのである」(17)。

こうした問題の背景には、中国における大学の野放図な拡充政策によって、社会的に価値の認められない学位が乱発されたことがある。その点について、翻訳版では監訳者による解説が冒頭におかれている。
それによれば、文革以後、初等・中等教育制度の整備が進み、その後は高等教育も拡充が目指された。1980年と2008年の統計を比較すれば、計画出産(一人っ子)政策のため初等教育学生数はこの間に減少している。しかし高校レベルの学生数は5倍増、大学など高等教育の学生数は実に27倍増となった(vii-viii)。
大学・学生数が激増したのと同時に、重点大学を指定しそこに政府資金を重点的に投入する「211工程」「985工程」を通し、「一流大学とそれ以外」の線引きが明確になされた。
加えて、「大卒者」への参入ルートも多様化した。社会人学生(成人教育)や、旧大検に近い制度「自考(自学考試)」など、通常の学生(本科生)以外にも多様な形の「大卒者」が現れることとなった。
こうした過程の中で、重点大学とその他の大学、および通常の卒業者と成人教育課程卒業者などの間に、大きな格差が生まれることとなった。「その他の大学」の「非本科生」は、残念ながら「大卒者」といっても社会的にその資格が認められる存在ではなくなっている、と監訳者は指摘する。

本書本文は、「雪だるま方式」で集めた質問紙調査の結果から、この集団の特性を把捉しようとした前半部と、聞き取り調査の結果から、彼らの生活上の苦労や心理的な苦悩をルポルタージュ的に描いた後半部に分かれる。

こうした「群居村」は、北京近郊では唐家嶺、小月河、二里荘、沙河鎮などがある。北京地区だけで、こうした人々は10万人以上いると推定される。
質問紙調査によれば、その住人の年齢は22-29歳(つまり「80后」)に集中しており、職業は技術系あるいはサービス系が多い。保険のセールス、電子器材の販売、広告の営業、飲食サービスなどである。平均月収はおよそ2000元で、平均の家賃は377元。

中国はタテにもヨコにも多様な社会なので「平均値」を考えるのが難しいが、イメージとして言えば月収2000元は、出稼ぎ労働者の賃金と、いわゆる大卒者の同年代の賃金の中間あたりである。本当の貧窮者という訳ではないが、独立して通常の社会生活を営むには厳しい額とでも言えば良いだろうか。

しかしまがりなりにも都市での独居を可能にしているのは、家賃の安さである。通常の意味で言う「北京市内」で、400元前後で借りられるワンルームマンションの物件は確実にない。どんなに安くても1000元はするだろう。だから、職のある若者でも、中国都市部ではルームシェアで家賃を抑えることが日本よりはるかに一般的である。

本書によれば、2006年に北京周辺の都市/農村の境界部に農業システム転換基地ができたのを機に、1Kの大量の部屋が建設され、格安で賃貸するとの情報がウェブで流された。住宅に困っていた若年層が、大挙してここに押し寄せた。こうして都市周縁部に激安マンションが増え、そこに「群居村」が短期間で形成されることとなった。

職業・教育状況の集計では、監訳者が社会的価値を認められにくいと述べていた経歴の者が、相当数を占めている。また専攻によって格差があり、理工学(特に国立本科卒)は比較的高所得で、安い家賃に惹かれてここに入居しても短期に入れ替わる傾向がある。対して文系や経営学の卒業者は集団内部でも低所得であり、長期滞在になることが多いという。
またこの調査には一種の心理テストが入っており、ここの住人たちは強迫感、憂鬱感、敵対感、偏執などが、一般的な数値より高かったと報告している。

総じて、高等教育を受けたものの教育制度上の区分、あるいは地方出身者という制約などから、都市の同年代に強い劣等感を抱きやすい集団であるという。これは、苦学した家庭の子供が苦労し、都市民の恵まれた層の子弟が優遇される、つまり資源が世襲される「コネ社会」の現れ以外の何物でもない、と著者たちは義憤を禁じ得ないでいる。

他方、社会・政治に対する意識としては、社会や政治への参与意欲が比較的高いことが挙げられ、この集団が不満を持っていることが分かるという。
そして人的ネットワーク構築の手段としては、インターネットが最も使われている。ネット上の数々の事件の背景にも蟻族がいるだろうという。
しかし陳情・公開集会・ストライキやデモといった形で人とつながっている割合はそれほど高くなく、インターネットで人とつながっても、直接行動に出るよりは「傍観者的役割」であり、集団行動への意欲は高くない者が多い。よって現段階では直接に社会的脅威となる集団ではないが、このまま放置すればいつ不安定要因に転化するか分からない、というのが著者たちの観測だった。

後半部の、聞き取り調査によるルポルタージュは、要約しづらいこともあり、本文を参照して頂きたい。文芸的な中国版「青春残酷物語」であり、いろいろな文脈の違いはあるにしても、私周辺以下の世代にはどこか体感的に共感できる記述も多いのではないだろうか。
10人あまりの被調査者の濃密な語りを通し、夢を抱いて北京にやってきたものの、様々なトラブルや不合理に巻き込まれて次第に希望を失っていった様子が描かれる。

共通しているのは、学歴が評価されないこと、また北京の戸籍がないことにまつわる苦労であり、またやっと見つけた職が低賃金・高ノルマの仕事だったことである。
友人などと起業したが失敗した、という者も複数いる。マルチ商法詐欺に引っ掛かり、拉致同然に地方へ連れていかれ強制労働させられそうになったところ、やっとの思いで脱出したというエピソードを持つ者も複数いる。

また恋愛、家族、ルームメイト関係など、身近な人間関係のトラブルで流浪生活を余儀なくされた者も多い。
この点は著者たちが重視する点で、前半部の質問紙調査でも「性・恋愛・結婚」の充実度が低いことが強調され、それが「生活の質」に悪影響を及ぼしていると述べられている。
いわば中国の、相対的に豊かでない層の「非モテ」問題であり、むしろ日本より深刻そうである。
また「田舎に帰っても良いことはない」というのが全員の共通認識であり、故郷に帰る訳にもいかない。こうした「寄る辺のなさ」と、人生の転変を余儀なくされる「過剰な流動性」が、対象者の語りを通して記述されていく。

そして本書は、ここの住人たちが、街の入り口で、「水費」(いわば「ショバ代」)として月10元の不透明な集金を強制されていることを指摘し、小口であるとしても住民数を考えれば毎月莫大な額となるこの金は、一体どこに流れているのだろうか、という不気味な問いで閉じられている。

評者自身、本書の評判を聞いて、北京滞在中に知り合いの中国人の先生と唐家嶺へミニ取材へ行ったことがある。唐家嶺は、北京の有名大学が集まる市西北部に位置し、ハイテク産業集積地として知られる中関村の、市中心部から見て反対側の端に隣接した一帯である。
この本をきっかけとした、ジャーナリストの取材などが大量にあったらしく、住人も大家も妙に構えていたのが印象的だった。私が話した数人の若者たちは、「可哀想という取材がよく来たが、自分は満足しておりメディアの伝え方は間違っている」というようなことを言っていた。彼らは、中関村で、ウェブ管理者や末端のプログラマなど、いわゆる「ITドカタ」的な仕事に従事していた。

また大家は、「別に普通の快適な部屋だ」と言っていた。実際、単純に市中心部から離れて不便な点を除けば、それほど悪い部屋ではなさそうだったし、家賃も600~700元が相場のようだった。本書出版の後、農民が経営するマンションもやや改善されたのかもしれない。

しかしこれらのマンションは、要するに農地利用の規制緩和を拡大解釈し、家賃収入を得ようとした都市近郊農民による違法建築である。唐家嶺はすでに取り壊しが決定され、住民はほぼ全部退去したらしい。
取り壊し決定の経緯、また本書出版後に「蟻族」の存在が実際に政策的議論の俎上に乗った経緯については、「日経ビジネスオンライン」にて北村豊が日本語で報告 をしてくれている。各種の政策は、彼らを「地方に帰す」ということを主眼に置いている。

4環状線の外側に当たる北京の端っこは、そこかしこで再開発計画と立ち退き問題が起こっているようで、「蟻族」の解散を特に目的としたものかどうかは分からない。
また、中国は内陸部に向けた巨額の公共投資と内陸開発を同時期に進めており、「これからは故郷の近くにも仕事ができるからクニに帰れ」という言い分も一応は首尾一貫している。
しかしその言い分が完全に信用されるとは限らないのもまた当然である。こうした人々はどこの国でも出現しているのであり、何か「抜本的な対策」が存在するとは考えない方がいいだろう。

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