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『世論(上・下)』リップマン,W.【著】 掛川 トミ子【訳】(岩波書店)

世論(上・下)

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「「合意形成」とは何かを考え直すために」

たとえば今の中国に、やや不穏な空気が満ちているのは確かである。またチュニジアやエジプトで今起きていることを見ても、「民主主義とは何か」という極めて古典的なテーマが新しい形で浮上している。
いろいろな場所で、「西洋由来の民主主義は万能ではない」という言葉を聞く機会も、それにともなって増えているような気がしてならない。「西洋由来の民主主義」を「超克」したと主張する政治思想や政治体制は、20世紀を通じていくつも存在した。その中には他ならぬ過去の日本も含まれる。


その世紀を経た現代、「西洋由来の民主主義」が、「(西洋内部でも)十全に実現していない」という批判は可能であり必要でもあるだろう。しかし「そもそも必要がない」ということを、合理的に論じることは、おそらくもう不可能である。


この古典的なテーマについて、読むべき本は無限にある。今回は、ウォルター・リップマンが、第一次世界大戦終結のすぐ後にあたる1922年に書いた『世論』を取り上げたい。

リップマンは戦後も長く、アメリカ・ジャーナリズム界のご意見番として君臨した大物ジャーナリストだった。本書はその代表作とされており、すでに様々な観点から解釈がなされている。

一般的には、西洋世界でマスメディアの普及期にあたる戦間期、つまり「情報」が社会的影響力を増していった最中に、その功罪を「ステレオタイプ」や「疑似環境」といった概念で分析した、メディア論の古典であるとされている。

その筆致は洒脱で、学術書ではなく知的なエッセイに近いものである。必ずしも体系的に論旨を構築している訳でもない。古典といっても「読みやすい」部類に入る。

ざっくり分類すると、前半部で「メディアと情報のひずみ」の問題が扱われており、後半部はマスメディアの問題に限らない「アメリカの民主主義」の問題へと議論が拡大していく。冒頭に述べたような関心からすると、より興味をひかれるのは後者(主に下巻)の内容だろう。


まずは前半部の議論を概観してみよう。

第一次大戦の際、流布したデマや、報道の間違いの事例を豊富に挙げたうえで、「にせの現実に対してなぜ人は激しい反応を見せるのか」という問題が提示される(28)。

暫定的に彼が提示するのは「疑似環境」という概念である。人々は均質なやり方で世界を解釈しているのではなく、集団、階級、地方、職業、国家、党派などの差異にそって、人々の認識というのは特殊な世界群に分化している。そのそれぞれこそが「疑似環境」である。

諸個人は自分の属する所の「疑似環境」に、自分の世界解釈を適応させようとする。しかし局地化された世界解釈である「疑似環境」は、常に現実世界の総体そのものとはどこかで矛盾する。「世論」とは、集団ひいては個人の認識にバイアスをもたらす「疑似環境」の折り重なりの中で生成されるしかないものである。


報道の間違い、およびその間違いが大衆にそのまま普及してしまうことの背景には、多くこの「疑似環境」がある。その現実的な理由はいろいろあって:

・人為的な検閲の存在

・(集団をまたぐような)社会的接触を制限するさまざまの状況

・一日のうちで公的な事柄に注意を払うために使える時間が比較的乏しいこと

・事件をごく短文に圧縮して報じなければならないために起こる歪曲

・錯綜した世界を数少ない語彙で表現することのむずかしさ

・人々の中にすでに溶けこんでいる習慣を脅かすように思われる事実に直面することへの恐怖

などであるという(47-8)。


間違いの普及を説明するもう一つの概念が「ステレオタイプ」である。個人が元々もっている「先入観」と、「ステレオタイプ」にのっとったメディアからのメッセージが、個人の内部で同一化してしまう。報道内容がもつ「ステレオタイプ」(特定の人々に貼られたレッテル)は、受け手の個人の「先入観」を呼び起こす記号である(124)。

主に第一次対戦の際の戦時報道を実例として、こうした「ステレオタイプ」がもたらした間違いの数々が指摘されている。


むろん「ステレオタイプ」は、戦時報道に限ったことではない。たとえば大恐慌前夜にあたる当時、自由放任主義と集産主義とが激しく論争していた。簡略化すれば、図体の大きくなった大企業が不合理なので競争を貫徹させよという側と、むしろ大企業であることこそが競争力を生んでいるのだという側の論争である。

この論争にもステレオタイプがあり、それが論争をいたずらな党派的対立へと導いているとリップマンは指摘する。論争の内容も、その構図も、これはこれで現在にもみられる古くて新しい問題である。


「産業界の指導者たちは大規模トラストに自分たちの成功の顕彰碑を見た。

彼らに敗れた競争者たちは同じ大規模トラストに自分たちの敗残の烙印を見た。そこで指導者たちは大事業の経済性と効用とを説き、自由放任を求め、われこそは繁栄の代行者であり、通商の開発者であると言い放った。敗北者たちは、トラストの浪費と野蛮性を主張し、事業をトラストの不法共謀から解放するよう司法省に対して声高に訴えた。同じ状況であるのに、一方の側は進歩、経済性、目覚ましい発展を見、一方は反動、浪費、通商の制約を見たのである。この議論についてそれぞれの立場を証明しようと、目に見える真実と内部にひそむ真実、より深い真実とより大きな真実をめぐる大量の統計数字、逸話が発表された」(161)


そして彼の議論は次第に、そんな時代における「合意形成」とは何かという問題へ移行していく。(以下頁数は下巻のもの)

メディアの普及は「宣伝」の増大をもたらす。すると、「民主主義の原初的教義」であった「人間の心の自発性」という前提が揺らぐことになる。宣伝に煽られ、必ずしも自発的でない形で個人が意思決定することが一般化するからである(83)。

その状況における「合意形成」の難しさを、リップマンは連邦国家たるアメリカの状況から描き出す。


「伝統的」なアメリカの民主主義は、相互に孤立したコミュニティを単位とする「タウンシップ」だった。しかし連邦主義の台頭と「人民主権」の明確化により、「タウンシップ」は成立しなくなる。様々な意思決定が、人々が相互に認識できるコミュニティの内部ではなく、それらの集合体たる連邦の単位でなされるようになる。それらをつなぐのは、上巻で述べられていたようなマスメディアである。


連邦制のキモとなったのが、「官職任命制」だった。「官職任命制」は、理論的には、各地方の最優秀の人物が最高の叡智を中央の議会に結集させるということになっている。これにより、連邦中央の決定と、地域エゴとが分離されることとなる。

しかし必ずしも実態がともなっているとは言えないことも事実であり、中央の議会が、(個別の地域の現状を)何も知らないという不信感が、一般の人々にも蔓延している。

さらに、地域のリーダーが連邦政府との結びつきを強めると同時に、中央からの地方助成金や特権が、共同社会の自己中心性を促進していく。

この状況は、「限りなく多様な意見の闘争場」をもたらし、合意形成は困難を極めるようになる。


この状況を乗り越えるための選択肢は二つしかない、とリップマンは述べる。一方は「恐怖と服従による政治」であり、他方は「高度にシステム化が進み情報・分析にすぐれた政治」である(134)。


彼の議論は、直接参加型の合議による「合意形成」がもはや不可能になったこと、それ以後は人々の認識や合議にメディアが介在せざるを得ないこと、そしてそのメディアは必然的に集団的・党派的エゴイズムや誤解を生じさせること、を喝破している。

その上で彼が提示した二つの方向性は、こうした「民主主義の困難さ」に対峙した際の対照的な反応であり、その対比は現在にまで続いている。そのそれぞれが、具体的にいかなる制度をもたらすのかを、リップマンが詳しく述べていた訳ではない。しかし彼が、「恐怖と服従による政治」ではなく、「高度にシステム化が進み情報・分析にすぐれた政治」に正当性を見ていることは明らかである。

その背景には、伝統的共同体として想定されるような、直接参加型の合議が現在に復活することはありえない、という諦念があることも忘れられるべきでない。


「西洋由来の民主主義は万能ではない」という言い訳を備えた強権主義と、それに対し素朴・直接的な政治参加要求を突き付ける大衆運動、という対立図式があるとして、その双方にリップマンは同意しないだろう。


国内外のいろいろな状況を見るに、こうした議論が1920年代からすでに存在していたことを、まず直視することから始めた方が良いのではないか、という感慨を禁じ得ないのである。


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