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『ミクロコスモス』〈1〉〈2〉中沢新一(四季社)

ミクロコスモス〈1〉

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ミクロコスモス〈2〉

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アナロギア・エンティスの天才と同じ時代に生きていることに感謝

ほとんどが今世紀になってからあちこちの媒体に中沢新一の書いた中小掌編エッセーの集成。これからもⅢ、Ⅳ・・・と続いていくことが第Ⅰ巻の「短い序曲」に謳われている。

このさき何巻にまで脹れあがることになるか予想もつかないが、それを構成することになる文書のひとつひとつが、私の思考の全体性へのつながりを保ったまま、“小宇宙”としてのたたずまいをしめしていると、読んだ人に心づかれるようであってほしいものである。

楽しみなことだが、考えてみると、凡そまともなもの書きなら誰しも、その一作一作がその人の「全体性へのつながりを保っ」ているはずのところ、これが何だか新鮮な方法ないし新境地にみえてくるところが、いつも方法論そのものに詩を感じさせるのが絶妙に巧いこの書き手の強みであるに相違ない。

単純さの中に全てがとでも言いたげに瀟洒な淡いクリーム色のカヴァーに標題を浮き出す MIKROKOZMOSZ の文字は、ハンガリー語。何を気取ってと思うと、これが実は『ミクロコスモス』を作曲したバルトークに献げられた本とわかる。全体が神話論と音楽論として見るべきものあるエッセー集であり、20世紀前半の思想と音楽に実は同じことが生じていたことを点検する本であって、実にあや憎いばかりの意匠であろう。

マクロコスモス(大宇宙)が星や木石の外なる宇宙を、ミクロコスモス(小宇宙)がヒト一人の身心を指し、この両者が照応し、共鳴し合うというのが、神秘主義諸派の一貫した感覚であって、この本にも中沢ヴァージョンの神秘主義的世界感覚が流れていることがわかる題名であることなど、もはや自明。

神話的思考とは何で、「近代の150年ほどのプログラム」の制度疲労の後、それがいかに必要なものかという点を、どの一篇もが一個の「小宇宙」として反映している。そして大きくふたつに分かれてしまった世界をつなぐ中間、もしくは境界(性)というものの積極的称揚。梟(ふくろう)を論じても庭を論じても、ミッシェル・セールを論じても岡本太郎を論じても、その基本は微動もしない。見事にミクロコズミックな方法を持つ。

扱われる素材はだから自在で、ほとんど奔放といってよい。土器論、南方熊楠、藤森建築学ヤナーチェク論、正岡子規論、金春禅竹論・・・。どこからどれを読んでも面白い。寿司がレヴィ=ストロースの「料理の三角形」スキームの中でいかに「岬のさきっぽ」の意味を持つ料理でありうるか、サンタクロースが訪れてくる「音連れ」がいかに異教のラフミュージックに由来するものか、いたる所にアッという発見があり、しかもそれがふって湧くトリヴィア泉でなく、中沢の綴る文章の中で中沢の立てる論理に従って、ごく当然のように導きだされるサプライズと感じられるところが、とても並みの詩魂ではない。

第Ⅰ巻では、レヴィ=ストロースが実はいかに21世紀的な存在でありうるかを音楽史、絵画史、数学史のチャートの中で説く「孤独な構造主義者の夢想」が、チャートメーカー中沢ならではで、「いまとなってはポスト構造主義なるものが、構造主義のはらむ異様なほどの過激さを、知識人や時代の嗜好にも受け入れやすい凡庸な代物につくりかえてしまう、文化世界をあげての策謀だったのではないかとさえ思えてくる」という結論も、他の人間の書きものなら、そうそう簡単にうんとは言われまい。

もう一篇、白眉は「哲学の後戸(うしろど)」。「アジアとヨーロッパの境界」たるギリシャ――という捉え方がいきなりサプライズ――が生じた闇を「魂のアジア」として内に抱えることでヨーロッパ精神ができることを弁えよ、というのが第一段。井筒俊彦の文体分析から入る手際にはアッと言わされる。その「魂のヨーロッパ」に今、日本からどうアプローチするかというところで、「日本型のグノーシス学」としての伊勢神道を浮上させるのが、第二段。グラムシから入って度会家行まで突き抜けた「境界的グノーシス」学(border gnoselogy,W・D・ミニョーロ)の知識人像のあぶりだしには、息を呑む他ない。

これに第Ⅱ巻で匹敵しうるのが「耳のための、小さな革命」。「心の中でひそかに、無意識の耳」が聴き取る「別の音律」がいかに「バッハの犯罪」――十二平均律――で疎外されたかの歴史。

ヨーロッパの哲学や思考の道具は、鍵盤楽器のようだと思います。そしてこの鍵盤楽器の最高の調律師が、おそらくカントでしょう。

何たる詩を誘惑するチャートメーキング。絶妙のキャッチコピー。ピタゴラス音階を論じる次のくだりにこれは極まる。松岡正剛を数倍した凝縮の詩性。

西欧の合理的な音楽の発端をつくったピタゴラスは、鍛冶屋からアイディアを得たという話をしました。これは、製鉄技術の重要性を暗示しようとするエピソードです。製鉄がおこなわれるようになって、人間は国家をつくり、王が誕生しました。そのときから、人間の文化のありとあらゆるものが組織替えを起こしました。鍛冶屋はシャーマンであり、最初の音楽師であったと、世界中の神話で語られています。地下世界から砂鉄や鉄鉱石を取りだして精錬をおこなう製鉄の技術と、複雑微小な音のかたまりから振動数が整った音の組織をつくりあげる音楽の技術は深いところでつながっています。こうした技術を積みかさね、人間は、今ある文明をつくりあげてきました、そして、そういう文明自体が、いまひとつの終着点に近づいているのではないでしょうか。

音楽を通しての近代批判。相異なるものを論中に結合する類推力にも感嘆するが、音楽論ともみえて実はそっくり指輪物語』への最良最深のコメントになり始めている呼吸にも感心していたら、きちんと「21世紀は、この剣と指輪を、もとあった場所に戻す時代なのだ」とまとめられてしまう。見事な手練だ。

第Ⅱ巻ではあと、正岡子規の野球論が日本語改革とつながっていく「陽気と客観」、吉本隆明マルクス論を「ボロメオの輪」を使って激賞し、それに比べればデリダなんぞ「周辺をうろついていただけ」と喝破して痛快な「吉本隆明さんをめぐる三つの文章」に、楽しく衝撃された。「イマジネールなもの/サンボリックなもの」を、これ以上明快に理解させてくれる文章、珍しかろう。フーコーデリダもだめ、ミシェル・セールレヴィ=ストロース西田幾多郎万歳と、「現代思想」に対する中沢のスタイルは実に鮮明だ。

個人的にはセールや南方熊楠ライプニッツのアルス・コンピナトリアに近いという指摘が印象深い。中沢は意外と、ぼくやホルスト・ブレーデカンプに近いところにいるのかも。

今までの中沢の本のどれかを小さく反映する文章群。この美しい本は中沢宇宙全体を鏡映するミクロコスモスとも思えてくるはずだ。

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