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10+1 series 『Readings:1 建築の書物 都市の書物』 五十嵐太郎[編] (INAX出版)

Readings:1 建築の書物 都市の書物

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あの『GS』テイストは今吹かれると一段と気持ちいい

当連載においてここ数回、一昔前に出た素晴らしい本が今年2007年に次々と復刊、重版され再び活字として読めるようになって、という紹介をしてきた。ぼくの趣味も当然あるが、シヴェルブシュの鉄道の19世紀文化史スティーヴン・カーンの19世紀末~20世紀初めモダニズムの『空間の文化史』安西信一氏の英国式風景庭園の18世紀論と、「空間」をキーワードに大なり小なり「建築」の歴史を考えさせるタイプの本が多い。

新千年紀到来直前の10~20年はいわゆるポストモダン各論が大いに盛んだった頃で、その中で一番早く、的確にポストモダンの観念を問題にした栄誉を担う建築――チャールズ・ジェンクスの『ポスト・モダニズムの建築言語』が1977年――が時代思潮の中核となる(普段のなにか理屈っぽく地味なあり方とは似ない)華々しい「言説」をもって跳り出てきていて、およそ「現代思想」を語るのにモダニズムからポストモダンへという建築学・建築史のイロハを知らないではいられないのだという、ほとんど強迫観念がうまれた。浅田彰一人なら何とか「ついていける」が、磯崎新が一枚かむと、もう途端に雲の上、というか拒否反応、というポストモダン・ファンは多かった。浅田氏を核にした伝説的雑誌『GS』ひとつとっても、大体が創刊号にユートピアという建築意志そのものの総特集を立て、ロザリンド・クラウスを本邦に初めて総力紹介し(結果、『GS』が日本の『オクトーバー』誌たらんとしているのだと幻想させ)、気鋭の伊藤俊治、彦坂裕といったところに思いっきり濃密な長大論文を書かせていた。

『GS』が思想誌としては例外的な社会現象となった1990年に生まれた若者がいよいよ大学に入ってくるなど、ぼくなどなかなか信じられない。笑うべき政治道化で終った黒川紀章氏が世界相手のスーパースター建築理論家だったことを知らないどころか、『GS』も浅田彰も知らない世代が登場してきた。

だからこそ、この本の重版は意味がある。初版が出て8年。いろいろ展開めまぐるしい建築学の世界だが、幸いこの間、何かをひっくり返すような理論的展開があったように(素人目にも)見えない(ところが問題か)。

表紙の惹句に「20世紀の建築・都市・文化論ブックガイド。」とある。片手に収まるかっちりした小体(こてい)な本にしては大胆不敵なことを謳うので、目次を見て、感心する。目次構成と流れが生命線という種類の本だ。本のどこにも書いていないが、これはズバリ、浅田彰の下で『GS』編集をやっていた人物がつくった本である。当時は未訳のハル・フォスター編『反美学』を知りもしなかったぼくに失笑した人物。建築の事典をブック・ガイドを口実に一冊編んだというべき本なので、言葉足らずの感は否めないが、確かに『GS』テイストで仕上がっている。

大枠、順に「西洋近代建築」、「西洋現代建築」、「日本近代建築」、「日本現代建築」、「建築史」、「批評」、「都市」、「芸術」、「文学」、「思想」となっており、大きな切れ目には、本のタイトルではカテゴライズしにくい文化他ジャンル(音楽、映画、写真・・・)と建築のつながりをカヴァーするエッセーを「コラム」として入れてある。ブック・ガイド本体も実に錚々たる執筆者が隙間なく並ぶが、『趣都の誕生』でブレークする前の森川嘉一郎氏がアニメ、ゲームと建築を論じたり、大島洋氏が「1968年の都市風景」に触れた「写真‐都市」など、コラムもみっちりである。

本当は目次をすべてここに引用したいくらいのものだ。最初の「西洋近代建築」を見ても、アドルフ・ロース『装飾と罪悪』、ル・コルビュジエ『建築をめざして』ヴァルター・グロピウス他『バウハウス叢書』(1.国際建築/2.教育スケッチブック/3.バウハウスの実験住宅/4.バウハウスの舞台/5.新しい造形/6.新しい造形芸術の基礎概念/7.バウハウス工房の新製品/8.絵画・写真・映画/9.点と線から面へ/10.オランダの建築/11.無対象の世界/12.デッサウのバウハウス建築/13.キュービズム/14.材料から建築へ/別巻1.バウハウスとその周辺I-美術・デザイン・政治・教育/別巻2.バウハウスとその周辺II-理念・音楽・映画・資料・年表)、エル・リシツキー『革命と建築』、ニコラス・ペヴスナー『モダン・デザインの展開』、ジークフリート・ギーディオン『空間 時間 建築』、レイナー・バンハム『第一機械時代の理論とデザイン』バックミンスター・フラー『宇宙船「地球」号-フラー人類の行方を語る』、ヘンリー=ラッセル・ヒッチコックフィリップ・ジョンソン『インターナショナル・スタイル』ビアトリス・コロミーナ『マスメディアとしての近代建築-アドルフ・ロースとル・コルビュジエ』の10冊。ゲップが出るほど古典的と思うが、10冊の枠と言われれば、見事な選択だ。

もうひとつ、最後の「思想」グループの9冊。ベンヤミン『パサージュ論』(第1巻第2巻第3巻第4巻第5巻)、ハイデッガー『芸術作品のはじまり』、アンリ・ルフェーヴル『都市への権利』『都市革命』、ロラン・バルト『表徴の帝国』、ミシェル・フーコー『監獄の誕生』、ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』、ジル・ドゥルーズ『襞-ライプニッツとバロック』、吉本隆明『ハイ・イメージ論』〈1〉〈2〉〈3〉)、そしてフレドリック・ジェイムソン『時間の種子』。これ以上でも以下でもない最高の立項である。

アンソニー・ヴィドラーの『不気味な建築』が入った「西洋現代建築」のグループも、井上章一『法隆寺への精神史』のある「建築史」も、松浦寿輝『エッフェル塔試論』絶賛の「批評」も、レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』の「錯乱」と女の目線がしっかり地に足つけたジェーン・ジェイコブスの『アメリカ大都市の死と生』が拮抗する「都市」も、とにかくそれぞれのグループが、あれもないこれもないという不満分子のつけ入る隙を与えない。ぼく自身も是非にと言って、「芸術」のグループにグスタフ・ホッケの『迷宮としての世界』について、また、「文学」のグループにフランセス・イエイツ『記憶術』のことを書かせてもらった。

「芸術」グループは、ヴォリンゲル『抽象と感情移入』、ハインリッヒ・ヴェルフリン『美術史の基礎概念』、エルウィン・パノフスキー『〈象徴(シンボル)形式〉としての遠近法』、ハンス・ゼードルマイヤー『中心の喪失』と続き、それをヴィーン派美術史からもヴァールブルク学派からも最高の恵みを受けたホッケのマニエリスム美術論が受けとめるという流れが、見事に目次の上に実現された。ホッケの名作は「迷宮」を謳うので分明のように、実はマニエリスム建築論なのだ。『マニエリスムと近代建築』のコーリン・ロウやアラタ・イソザキだけがマニエリスム建築理論家じゃあないよ、ね。ぼくの知人にジャンカルロ・マイオリーノがおり、ザビーネ・ロスバッハがいる。彼らのマニエリスム建築論には「ネオ」が付く。一方、「文学」の方は、『記憶術』の隣にイタロ・カルヴィ-ノ『見えない都市』が並び、前田愛『都市空間のなかの文学』を介して、ギブスンの『ニューロマンサー』とつながる。ううむ、この目次案中の「善き隣人関係」(E・H・ゴンブリック)は非常にインスパイアリングだ。

選ばれた100冊は思いついてバラバラにも読めるし(索引のないのが不親切だね、そうなると)、実はしっかりとあるらしい流れに沿って、あるまとまりをもって読むこともできる。いかようにも使える実に便利なハンドブックだ。

小説一本書か(け)ないでも小説理論家という人種はいくらもいて威張っているが、建築は実際に何かを造ってみせてなんぼという特異な世界だ。理屈がいつも、もの造りの「実体論」に揶揄されてしまうなかなか面白い世界の中で、たかだかこの100年一寸という建築「史」、建築「批評」が自虐的に理屈を尖鋭化していく様子が面白いし、痛ましい。建築後進国日本では特に、理論と歴史と批評が、貧しさと国家主義政治にさらされて実に危うい様子が改めてよくわかる(ヴィーン派などの「精神史」の入る余地は、まず限りなくゼロである)。『空間へ』の磯崎新、『風景を撃て』の宮内康両氏の全共闘時代の根源的な否定と、そこからアラタな模索をという状況そのものの仕事を、この本を読んでまず一番初めに読み直してみようと思うぼくもまた、基本的に貧しい文化の人間なのである。

巻末には索引がない代わりに、この100冊からさらに読み進むべき必読書1,000冊のリスト。勉強好きの『GS』テイスト、大爆発っ。

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